憲誠の後を継いだ経緯
- 何進滔は霊武の人。曾祖孝物、祖俊はともに本州の軍校。父默は夏州衙前兵馬使・検校太子賓客・試太常卿。進滔の栄達により左散騎常侍を贈られた。進滔は魏に寄寓し身を委ね節度使田弘正に仕えた。弘正が詔を受け鄆州の李師道を討った際、進滔は衙内都知兵馬使として功を挙げ兼侍御史を授かった。太和三年、軍衆が史憲誠を殺害した際、口々に「衙内都知兵馬使何端公を留後にすれば三軍は安んじる」と呼び、推されて立った。朝廷は左散騎常侍・魏博等州節度観察処置等使を授けた。魏帥を十余年務め民情を厚く得て、司徒・平章事にまで累官し卒した。
何進滔の子 弘敬――継承と対応
- 子弘敬が位を継いだ。朝廷は河中帥李執方・滄州帥劉約を遣わし帰朝を勧めたが弘敬は従わず、結局節制を加えられた。劉稹の反乱時には時を移さず出兵し、鎮州の王元逵が邢・洺二州を下し上党に兵を進めると弘敬も出師して境を圧した。大中以後、宣宗は姑息を旨として官爵を加え続け、咸通初年に卒した。子全皞が跡を継ぎ、朝廷はまもなく符節を降し同平章事に至ったが、咸通十一年、軍人に殺された。子孫が相継ぎ四十余年に及んだ。