舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 陸扆
陸扆、字は祥文、本名は允迪。呉郡の人で、後に陝州へ移り住んだ。光啓2年(886年)に進士に及第し、僖宗・昭宗の二朝に仕えた文才の宰相。乾寧3年と昭宗還宮後の二度にわたり同平章事を拝した。覃王の出兵に諫言して左遷されるなど直言を辞さなかったが、昭宗弑逆後の政変に連座し、濮州司戸に貶されたのち殺害された(時に年59)。
年表(10件)
- 光啓2年886年進士に及第し、僖宗の興元行幸に従う
- 竜紀元年冬889年藍田尉に召され直弘文館となる
- 大順2年3月891年翰林学士に召される
- 景福元年892年祠部郎中・知制誥を加えられる
- 乾寧2年895年兵部に改められ銀青光禄大夫等に進階する
- 乾寧3年7月896年戸部侍郎・同平章事となり宰相に就任する
- 昭宗
- 弑逆の翌年正月濮州司戸に責授され、滑州白馬駅で殺害される(時に年59)
- 乾寧4年2月897年硤州刺史から召還され工部尚書を授けられる
- 光化3年4月900年戸部尚書を兼ね呉郡開国公に進封される
- 天復元年5月901年特進に進階し兵部尚書を兼ねる
出自と経歴
- 陸扆、字は祥文、本名は允迪、呉郡の人。陝に家を移し今は陝州人となる。曾祖は澧、殿中侍御史に終わった。祖は師徳、淮南観察支使。父は鄯、陝州法曹参軍。
- 扆は光啓2年(886年)進士に及第し、その年僖宗の興元行幸に従った。9月、宰相韋昭度が塩鉄を領すると巡官に奏された。翌年、宰相孔緯の奏で直史館・校書郎を得たが、まもなく母の喪に服し免官。竜紀元年(889年)冬、藍田尉に召され直弘文館となり、左拾遺に遷り集賢学士を兼ねた。中丞柳玭の奏で監察御史に改められた。大順2年(891年)3月、翰林学士に召され屯田員外郎に改められ緋を賜った。景福元年(892年)祠部郎中・知制誥を加えられ、翌年元日の朝賀で金紫の服を面賜され、5月中書舎人を拝した。
文才と宰相就任
- 扆は文思敏速で、思慮を経ずして筆を揮うこと飛ぶがごとく、文理ともに整い同僚もその才に服した。天子の待遇はことのほか厚く、かつて金鑾殿で賦を作らせ学士に和させたとき、扆が最も早く成した。帝はこれを見て嗟嘆し「朕は貞元の頃、陸贄・呉通玄兄弟が内庭の文書をよくしたと聞くが、その後は絶えて続く者がなかった。今、私は卿を得た、この文はもう絶えることがない」と言った。
- 乾寧の初め戸部侍郎に転じた。乾寧2年(895年)兵部に改められ銀青光禄大夫・嘉興男・三百戸に進階した。乾寧3年正月、学士承旨を宣授され、まもなく左丞に改められた。その年7月、戸部侍郎・同平章事に改められた。故事では三署の除拝には光署銭で旧僚を宴するがあり、内署にはこの例がなかったが、扆は輔相を拝した月に学士の光院銭五百貫を送り特に新例を挙げ、内署はこれを栄とした。8月、中書侍郎・集賢殿大学士・判戸部事を加えられた。
覃王出兵への諫言と晩年
- 9月、覃王が師を率いて徐彦若の鳳翔赴任を送った。師の起こる際、扆は「播越の後、国歩がようやく集まったばかりで近輔と交悪すべきではない、必ず他の盗賊に隙を窺われよう。加えて親王が兵を統べれば物議が沸き事に益なく、後患を貽すのみだ」と堅く諫めた。昭宗は既に兵を発しており、扆が議を阻んだことに怒り、その月19日に硤州刺史に責授した。師は出ると果たして敗れ、車駕は出幸した。乾寧4年(897年)2月、再び工部尚書を授けられ、8月兵部尚書に転じ、昭宗の華州からの還宮に従った。
- 翌年正月、再び中書侍郎・同平章事を拝した。光化3年(900年)4月、戸部尚書を兼ね呉郡開国公に進封され食邑千戸を得た。9月、門下侍郎・監修国史に転じた。天復元年(901年)5月、特進に進階し兵部尚書を兼ね食邑五百戸を加えられた。
- 車駕が鳳翔から京に還ると、赦後諸道はみな詔書を降されたが鳳翔だけは詔がなかった。扆は「鳳翔は国門に近く、その心跡を責めれば罪は実に容れがたいが、近ごろ職貢に欠けはなく朝廷はまだこれと絶っていない。一朝にして詔命がないのは人に示すに広からず」と奏した。崔胤は怒り扆を沂王傅に貶し東都に分司させ階を正議大夫に削った。まもなく崔胤が誅されると再び吏部尚書を授けられ階封は元のごとくとなり、昭宗の洛陽還幸に従った。その年秋、昭宗が弑せられた。翌年正月、濮州司戸に責授され、裴枢・崔遠・独孤損らとともに滑州白馬駅で害された、時に年59。
陸扆子 璪
- 子の璪は後に緱氏令となった。