舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 柳璨

出自と学問

  • 柳璨、河東の人。曾祖は子華。祖は公器、僕射柳公綽の再従弟。父は遵。璨は幼くして父を失い貧しかったが学を好み、林泉に僻居した。昼は薪を採り夜は木葉を燃やして書を照らした。性は謇直で飾ることがなかった。一族の柳璧・柳玭は朝廷で貴仕していたが璨を朴鈍として一族に数えなかった。
  • 光化中、進士に登第した。特に『漢史』に精通し、魯国の顔蕘に深く重んじられた。蕘は中書舎人として史館を判じており璨を引いて直学士とした。璨は劉子玄の著した『史通』が経史を譏駁するのが過当であるとして、子玄の失を紀した別書十巻を著し『柳氏釈史』と号し、学者はその該博さに服した。左拾遺に遷り、公卿・朝野が箋奏を委ねるようになり、時に「柳篋子」と呼ばれるほど名声を得た。

昭宗の寵任と急速な昇進

  • 昭宗は文を好み、初め李谿を寵待し文学を重んじたが、谿が非業に死んだ後は常にこれを惜しみ、谿に似た文士を求めていた。ある者が高才として璨を薦め、召見して詩什を試すと大いに喜び、まもなく翰林学士に召した。
  • 崔胤が罪を得た前日、璨を召して内殿で制勅を起草させた。胤が死んだ日の夕、璨が内から出ると先駆が「相公来る」と呼ばわった。人々はまだ制勅を見ておらず何事か測りかねた。翌日、学士に対して上は「朕は柳璨を奇特と思い獎任してよいと考えている。もし政事に預からせるならどの官を授けるべきか」と問うた。承旨張文蔚は「陛下が賢能を抜擢されるのに資級にとらわれる必要はございません。恩命の高下は聖懐より出ずるもの。もし両省の遷転に循えば拾遺は超えて起居郎に入りますが、大位に臨むにはふさわしくございません」と答えた。帝が「諫議大夫まで超えるのはどうか」と言うと文蔚は「それは甚だ穏当です」と答え、諫議大夫平章事に任じ中書侍郎に改めた。人を任ずる速さはかつて例がなかった。

同列との軋轢と朱全忠への迎合

  • 同列の裴枢・独孤損・崔遠はいずれも旧来の名徳あるものたちで、にわかに璨と同列となったことをやや軽んじたため、璨は深く怨みを蓄えた。
  • 昭宗が洛陽に遷ると、諸司の内使や宿衛将佐はみな朱全忠の腹心であり、璨はみな将迎して恩をもって接し厚く交結したため、当時の権任はみな璨に帰した。

白馬駅の獄と誅殺

  • 乾寧2年5月、西北に長星が天を横切り太微・文昌・帝座の諸宿を掃くと、全忠は篡代を謀っており、妖星が現れたことについて占者は「君臣ともに災いがある、刑殺をもって天変に応じるべし」と言った。蒋玄暉・張廷範は制しがたい衣冠の宿望ある者を殺そうと謀り、璨は率先して日ごろ快く思わなかった者30余人を密告し、相次いで誅殺させた。班行はこれにより空となり、冤の声は路に満ちた。あまりに害が甚だしかったため、朱全忠はこれを心中で憎んだ。
  • 全忠が九錫を授かるにあたり、蒋玄暉らが別に意見を陳べたところ、王殷が大梁に至り玄暉らが宮掖に通じ李氏の復興を図っていると誣告した。全忠は怒り張廷範を捕らえ、河南に人を集めさせ五軍でこれを分裂させ、あわせて璨をも誅した。臨刑に「国を負く賊柳璨よ、死は当然だ」と呼ばわった。璨は洛陽遷都後、戸部尚書・守司空を累兼し、光禄大夫に進階し塩鉄転運使となっていた。
  • その弟の柳瑀・柳瑊は璨に連坐して笞死した。

史論

  • 史臣は言う。ああ、李氏(唐室)が統御を失ってからというもの、災異の気は乱れ広がり、仁義の徒はほとんど尽き果てた。狐が鳴き鴟が嘯くように瓦解土崩し、河嶽を帯びる要衝の門にも祖逖・劉琨のような人物は絶え、挺を奮い竿を掲げる輩は王敦・桓玄の類にばかり倣った。手はまだ棘矜(粗末な武器)を放さぬうちから、心は既に問鼎(帝位簒奪)を萌していた。加えて浮薄な士子、鯫儒(凡愚な儒者)たちは、管仲・諸葛亮のような済世の才もなく、王導・謝安のような扶顛の業もなく、功を求め利を射て、一族を陥れ国を喪うに至った。張濬・孔緯は前で虎を養い、崔胤・柳璨は後で廬を剥いだ。徐彦若・薛(李谿を指すか)を瘴海に逐い、鄭綮・朱朴を巌廊(朝廷)に置いた。殿廷には麻を哭す夫があり、輔弼には輿を破る党が走った。九疇(統治の大法)は既に紊れ、百怪はここに現れた。木が朽ちんとすれば蠹蝎が生じ、疫が篤くなれば夔魖(怪物)が現れるがごとく、妖徒がかくのごとくであれば亡国もまた当然である。何も長星が現れずとも、衰運はいずれ訪れたであろう。

  • 贊にいう。蕭遘・朱玫、孔緯(孔符は誤記か)・張濬は、その身と世が殃に遭い、国家に釁を起こした。木が虫に蝕まれるように、内側から自ら潰えた。隙をうかがい乱に付け込む者を、どうして「伏戎」(隠れた敵)とばかり責められようか。