舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 劉崇望

劉崇望、字は希徒(?–899年、享年62)。咸通15年に進士に及第し、昭宗朝で宰相を歴任した。楊守信の反乱鎮定に功があり、のち王行瑜らの誣告で一時左遷されたが復権した。兄の崇亀、弟の崇魯・崇謨もそれぞれ官途に就いた一族である。

年表(10件)

先祖

  • 劉崇望、字は希徒。その先祖は代郡の人で、北魏孝文帝の洛陽遷都に従い河南人となった。八代祖は隋の大理卿劉坦。坦は劉政会を生み、政会は太宗の晋陽挙兵を輔け戸部尚書に至り渝国公に封ぜられ、凌煙閣に図形された。政会は玄意を生み、玄意は太宗の女南平公主を尚とり洪・饒など八州采訪使を歴任した。玄意は奇を生み奇は吏部侍郎に至った。奇は慎知を生み慎知は獲嘉令に仕えた。慎知は褧を生み褧は東阿令に仕えた。褧は藻を生み藻は秘書郎に終わった。藻は符を生み、符は進士に登第し咸通中に蔡州刺史に終わった。符には八子あり、崇亀・崇望・崇魯・崇謨が最も知られている。

劉崇望兄 崇亀

  • 崇亀は咸通6年(865年)進士に及第し、起居舎人、礼部・兵部の二員外を累遷した。母の喪に服し免官。広明元年(880年)春、鄭従讜が罷相し太原を鎮めると、崇亀を度支判官・検校吏部郎中・御史中丞に奏し金紫を賜らせた。中和3年(883年)朝に入り兵部郎中となり給事中を拝した。大順中、左散騎常侍・集賢殿学士・判院事に遷り戸部侍郎に改められ、検校戸部尚書となった。広州刺史・清海軍節度・嶺南東道観察処置等使として出て、卒した。

経歴

  • 崇望は咸通15年(874年)進士科に登第した。王凝が宣歙を廉問すると転運巡官に辟され、戸部侍郎裴坦が塩鉄を領すると参佐に辟された。崔安潜が許昌・成都を鎮めると崇望兄弟四人はみな安潜の幕下にあった。長安尉・直弘文館として入り、監察御史・右補闕・起居郎・弘文館学士に遷り、司勲・吏部の二員外郎に転じた。崔安潜が吏部尚書となると崇望は南曹を判し宿弊を除いて選部を清くした。
  • 田令孜の幹政に藩鎮は怨望し、特に河中はひどく職貢を修めなかった。僖宗が山南にあったとき、蒲阪が関に近いためその効用を求め、使を選んで諭旨させることになり崇望を諫議大夫とした。至ると大義をもって諭し、王重栄は詔を奉じ恭順を誓い朱玫を殺して自ら贖うことを請うた。使いが還ると上は悦び、翰林に召し学士とし、戸部侍郎・承旨に累遷し、兵部に転じ禁署に在ること4年に及んだ。

昭宗朝の重用

  • 昭宗の即位後、中書侍郎・同平章事を拝し、兵部・吏部尚書を累兼した。大順の初め、同列の張濬が太原討伐を画策すると崇望は不可とし、果たして濬は敗れた。濬が黜けられると崇望が代わって門下侍郎・監修国史・判度支となった。
  • 翌年、玉山都頭楊守信が楊復恭と組んで闕下に兵を挙げ、通化門に陣を布いた。上は延嘉門に兵を陳ねた。その夜、崇望に度支庫を守らせた。翌朝、含光門に入ろうとしたが門はまだ開かず、門内の禁軍が左右に列んで開門を待って両市を劫掠しようとしていた。宰相が来たと伝わると門はようやく開かれ、崇望は馬を駐めて「聖上は街の東で自ら戎事を総べておられる。公らは禁軍である、どうして楼前で賊を殺し功名を立てないのか。決して街市を剽掠し小利を図って悪名を成してはならぬ」と慰諭した。将士は唯々として崇望に従い長楽門に至り、守信は兵の来るのを見て逃走し、軍士は万歳を呼んだ。この日、庫と市は無事で軍人も乱れなかった、これはひとえに崇望の方略によるものであった。まもなく左僕射を加えられた。

武寧軍・王溥との軋轢

  • 時溥が朱全忠と勢力を争い、全忠が徐・泗を兼ねようと図って重臣を徐州に鎮すべきことを上表すると、崇望は本官のまま武寧軍節度使を充てられたが、溥は代を受けず華陰に至って還り、崇望は太常卿を拝した。
  • 王重盈が死ぬと王珂・王珙が河中の節鉞を争い、朝廷は宰相崔胤を河中節度使とした。珂は李克用の女婿であった。河東進奏官薛志勤が「崔相は重徳ではあるが河中に鎮し王珂に代わるくらいなら光徳の劉公の方が我らの公事に馴染みがある」と揚言した。三鎮が兵をもって入朝し大臣を殺害した際、志勤のこの言により崇望は昭州司馬に責授された。王行瑜が誅されると太原は崇望が無辜に放逐されたことを上表し、崇望が既に荊南に至っていたところ召還の詔があり吏部尚書を拝したが、至らぬうちに王溥が再び政事を知り吏部尚書を兼ねたため、崇望は兵部尚書に改められた。
  • 当時、西川が顧彦暉を侵し東川を併せようとしたため、崇望を検校右僕射・平章事・梓州刺史・剣南東川節度使としたが、鎮に至らぬうちに召還され再び兵部尚書となった。光化2年(899年)に卒した、時に年62。司空を冊贈された。

劉崇望弟 崇魯

  • 崇魯は広明元年(880年)進士に登第し、鄭従讜が太原推官に奏充した。兄崇亀が節度判官であったとき兄弟が同じ幕府に居り、まもなく掌書記に転じた。中和2年(882年)朝に入り右拾遺・左補闕を拝した。
  • 景福の初め、水部員外郎・知制誥となった。景福2年、杜譲能が罪を得た後、昭宗が再び韋昭度を相とし翰林学士李谿を同平章事に命じたとき、崇魯は崔昭緯と親しく、昭緯は邠・岐の援を恃み、譲能の誅殺後は権が己に帰し、昭宗が李谿の文を師としていたため寵を得れば恩顧が漸く衰えることを懼れ、密かに崇魯と謀ってこれを阻んだ。谿の任命を宣する日、崇魯は班を出て哭し昭緯に「朝廷が賢に乏しくとも、纎人を宰輔にしてはならない。谿は近ごろ楊復恭・楊守立に依っていた。先日の杜太尉の狼藉は朝廷の深恥であったのに、これほど朝廷が衰弱した今、なぜ再びその轍を踏むのか」と言った。これにより谿の命は行われなかった。谿は11月初めから歳暮まで十通の表を連ねて訴冤し、その言葉は聞くに堪えぬほどの詆毀であった。翌年春、再び谿は平章事に任じられた。
  • 昭緯は李茂貞・王行瑜・韓建を召して入朝させ昭度と谿を殺させた。その年、太原が王行瑜を誅すると昭緯は貶官され、崇魯もこれに坐して崖州司戸に貶された。当初、崇亀は外にあってこの哭麻の事を聞くと大いに憤り数日食事をとらず、親しい者に「我が家の兄弟は身を起こしてより声利で名を敗ったことはなかった。我が門も不幸だ、こんな子を生むとは」と語った。

劉崇望弟 崇謨

  • 崇謨は中和3年(883年)進士に及第した。乾寧末、太常少卿・弘文館直学士となった。