舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 鄭綮

鄭綮、進士出身の官僚(?–899年)。詩才に優れ「鄭五歇後体」と称される諷刺詩で知られた。廬州刺史時代に黄巢の侵攻を免れさせるなど機知に富み、光化初めに意外な形で宰相に抜擢されたが、まもなく致仕した。

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鄭綮

  • 鄭綮は進士に登第し、監察・殿中、倉・戸の二員外、金・刑・右司の三郎中を歴任した。家貧しく郡を求め廬州刺史として出た。黄巢が嶺表から還る途中淮南を剽掠した際、綮は黄巢に文牒を移し郡界を犯さないよう請うと、巣は笑ってこれに従い、一郡だけが寇を免れた。天子はこれを嘉し緋魚袋を賜った。郡を罷めた際、銭千緡を州の帑に寄せた。後に郡が幾度も陥落したが、盗賊は「鄭使君の寄庫の銭」には手を出さなかった。楊行密が刺史となったとき、寄せていた銭を京師に送り綮に還した。
  • 綮は詩をよくし多く時事を諷刺したため格調は落ちるとされ、当時「鄭五歇後体」と呼ばれた。廬江を去るとき郡人に「唯だ両行の公廨の涙あり、一時に渡頭の風に灑ぐ」と別れの詩を残すなど、滑稽はみなこの類であった。
  • 王徽が御史大夫のとき、綮を兵部郎中・知台雑に奏し、給事中に遷り金紫を賜った。僖宗が山南から還ると、宰相杜譲能の弟弘徽を中書舎人にしたが、綮は「弘徽の兄が中書に在るのに弟が禁近に同居すべきではない」として制書を封還した。天子が応じなかったため、綮は病と称し官を休んだ。まもなく左散騎常侍として召還され、朝政に欠けがあれば必ず章を上げて論じた。事は行われなくとも都下に喧伝され、執政はこれを憎み国子祭酒に改めたが、物議が「綮を匡諫の廉で散地に置くのはよくない」としたため、執政は懼れて再び常侍に用いた。
  • 光化の初め(898年頃)、昭宗が還宮しても庶政はまだ整わなかった。綮はそのたびに詩に形して嘲り、中人がその語を上前に誦することもあった。昭宗はその激訐ぶりを見て蘊蓄があると考え、常の奏の班簿の側に「鄭綮を礼部侍郎・平章事にせよ」と註した。中書の胥吏がその家に参謁に赴くと、綮は笑って「諸君は大いに誤っている、天下の人がみな字も読めないというなら別だが、宰相は鄭五には及ばぬはずだ」と言った。胥吏が「聖旨特恩から出たもので明日制が下ります」と言うと、綮は手を挙げて「万一そうなったら、笑い死にしてしまう」と言った。翌日、果たして制が下り、親しい者が祝いに来ると、頭を掻きながら「歇後の鄭五が宰相になるとは、時事も推して知るべしだ」と言った。たびたび表を上げて辞退したが許されず、視事につくと侃然として道を守り詼諧はなくなった。ついに物望に合わぬとして自ら引退を求め、3か月余りで病と称し骸骨を乞い、太子少保をもって致仕した。光化2年(899年)に卒した。
  • 当時の議論では、昭宗が張濬・朱朴・鄭綮の三人を台臣に命じたのはとりわけ誤りであり、末世の妖であるとされた。