舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 韋昭度

韋昭度、字は正紀、京兆の人(?–894年頃)。咸通8年に進士に及第し宰相となった。西川討伐では王建に利用され成果を挙げられなかった。後年、崔昭緯らの讒言により李谿とともに三鎮の兵に殺害された。

年表(4件)

出自と経歴

  • 韋昭度、字は正紀、京兆の人。祖は縃、父は逢。昭度は咸通8年(867年)進士に及第。乾符中、尚書郎・知制誥に累遷し、正しく中書舎人に任じられた。僖宗の蜀行幸に従い戸部侍郎を拝した。中和元年(881年)礼部貢挙を権知し、翌年本官のまま同平章事となり吏部尚書を兼ねた。

西川討伐

  • 昭宗の即位後、閬州刺史王建が成都の陳敬瑄を攻め貢奉を隔絶した。そこで昭度を検校司空・同平章事・成都尹・剣南西川節度招撫宣慰等使とした。昭度が鎮に赴くと敬瑄は代を受け付けなかった。東川顧彦朗と王建に合勢して討つよう詔し、昭度は行営招討となったが、歳を越えても漢州を抜くのみであった。
  • 王建は昭度に「相公は師を労し衆を疲れさせて遠く蛮夷を相手にしておられます。聞くところ京洛以東では諸侯が互いに食み合い禍難がやみません。朝廷が治まらぬのは腹心の疾であり、相公は速やかに京師に還り、匡合を謀り両河を平定されるのが国家の利です。敬瑄などは小醜であり日月をもって制すれば必ず擒にできます、この事は私にお任せください」と言った。昭度はこれを是とし還都を奏請したが、京師に至らぬうちに建は重兵で剣門を守り、急いで成都を攻め落とし敬瑄を殺して留後を自称した。
  • 昭度は還って検校司空として東都留守を充てられ、召還されて右僕射となった。

李谿との連座と非業の死

  • 景福2年(893年)冬、宰相杜譲能が鳳翔に殺されると、再び昭度に政事を委ね、李谿と並んで任じられた。当時、宰相崔昭緯は政を専断し李谿の人となりを憎んでいた。制を降す日、知制誥劉崇魯に麻を哭せしめてこれを阻んだ。谿が上表して弁じると天子は谿への待遇をより厚くし、翌年春、再び谿を同平章事に任じ、昭緯はますます憤懣を抑えられなかった。
  • これより先、邠州王行瑜は尚書令を求めたが、昭度は「国朝以来、郭子儀ほどの功でもこの官を兼ねたことはない」と奏議し「尚父」の号を賜らせるにとどめた。崔昭緯の一族崔鋌はかつて行瑜の従事であり、朝廷が昭緯に不利な制勅を下すたびに鋌に訴えさせ上章論列させていた。朝旨がやや行瑜の意に沿わないと、たちまち不遜な表を上げた。
  • 李谿の再任にあたり、昭緯は鋌に「先の尚父の命は既に行われたが昭度がこれを阻み、今また谿を同列に引き入れた。この人物は姦纎で上の視聴を惑わし、宗社を不寧にする。また杜太尉のような事が起きるのを恐れる」と言った。行瑜と李茂貞は「相を命ずるに人を得ず宗社を危うくすることを懼れる」と上章し、天子は優詔をもって谿の才を諭したが、その年5月、行瑜・茂貞・華州韓建が兵を率いて入覲し、面と向かって昭度・李谿の姦邪を奏し譴逐を請うた。制勅がまだ下らないうちに、三鎮の兵は都亭駅で昭度を殺害した。行瑜が誅されると、制を降して官爵を復し、その家に収葬させた。