舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 孔緯

孔緯、字は化文、孔子の裔(?–895年)。大中13年に進士に及第し、僖宗の蒙塵に随行して功をあげ、昭宗朝で宰相を歴任した。節義を重んじ権勢に屈しない硬骨漢として知られ、張濬の太原討伐策を支持したことでその失脚に連座した。

年表(5件)

出自と経歴

  • 孔緯、字は化文。魯の曲阜の人で、宣尼(孔子)の裔。曾祖岑父は秘書省著作佐郎に終わり、諫議大夫孔巣父の兄。祖の戣は礼部尚書に終わり、別に伝がある。父遵孺は華陰県丞に終わった。
  • 緯は幼くして父を失い、諸父の温裕・温業に依った。二人とも方鎮に居り名公と交わっていたため、緯の名声は早くから知られた。大中13年(859年)進士に及第し、秘書省校書郎として仕官した。崔慎由が梓州を鎮めると従事に辟され、また崔鉉に従い揚州支使となり協律郎を得た。崔慎由が華州・河中を鎮めるとどちらにも従い、観察判官を歴任した。
  • 宰相楊収の奏で長安尉・直弘文館となり、御史中丞王鐸の奏で監察御史、のち礼部員外郎に転じた。宰相徐商の奏で集賢直学士を兼ね、考功員外郎に改められた。母の喪に服し免官、服喪を終えると右司員外郎として朝に入った。宰臣趙隠がその文才を評価し翰林学士に薦め、考功郎中・知制誥に転じ緋を賜り、正しく中書舎人に任じられ、戸部侍郎に累遷した。謝恩の日、金紫の服を面賜された。乾符中、学士を罷め御史中丞として出た。

人柄と歴任

  • 緯は器量・志操ともに端正で、悪を嫉むこと仇のごとくであった。憲綱を総べてからは、内外は縄せずして自ら粛然となった。戸部・兵部・吏部の三侍郎を歴任し、選曹に在っては動くごとに格令に循った。権要の者が請託しようと私書を几に積んでも省みず、執政はこれを怒り太常卿に改めた。

僖宗蒙塵への随行

  • 黄巢の乱で僖宗の蜀行幸に従い、刑部尚書・判戸部事に改められた。宰臣蕭遘は翰林に在ったとき緯と情旨が合わなかった。このころ戸部の取り立てが充たなかったことを理由に散秩に移され、太子少保に改められた。光啓元年(885年)、駕に従って京に還った。
  • このころ田令孜の軍が敗れ沙陀が京師に逼り、帝は鳳翔に移幸、邠帥朱玫が兵を率いて駕を迎えた。令孜は帝を挟んで山南に幸した。夜中の出幸で百官の多くは扈従できず、随駕したのは黄門・衛士数百人のみであった。帝は宝鶏にとどまり百官を待ち、緯に詔して御史大夫を授け、中使を遣わして詔を伝え、緯に百僚を率いて行在に赴くよう命じた。
  • このとき京師は急変し、従駕の官属は盩厔に至ったところで乱兵に剽掠され資装をほぼ失った。緯は命を承け宰相と論事しようとしたが、蕭遘・裴澈は田令孜が帝の側にいるため行くことを欲さず、病と称して緯に会わなかった。緯は台吏に百官を促させたが皆「袍笏が整っていない」を口実にした。緯はやむを得ず三院御史を召し「我らは代々国恩を蒙り憲秩に身を置く。六飛が奔迫し天顔は咫尺にあるのに、たびたびの詔にも応じないのは臣子の義に非ず。布衣の交友でさえ緩急には互いに救うのに、まして君親に於いてをや。策名委質した身がどうして背けようか」と涙ながらに語った。三院は「懐わぬわけではないが、盩厔で剥奪されたばかりで食にも事欠く。今すぐ発つならせめて一日の費えを整え、二晩ほど待って出発したい」と答えた。緯は衣を払って立ち「我が妻は危篤で朝夕も知れぬが、丈夫たる者どうして妻子のために君父の急を怠ろうか。公らは自ら図られよ、私は行くと決めた」と言った。
  • その日のうちに李昌符に会い「主上は再び詔命を下し百僚の前進を促されている。諸公の様子を見るに未だ出発の期がない。私は憲闈に忝くも身を置く者、後れてはならない。道は険しく、どうか五十騎をお貸しいただき陳倉まで送っていただきたい」と告げた。昌符はこれを嘉し「路には頓所もなく糧はどうする」と尋ね、銭五十緡を送り騎士に緯を散関まで送らせた。緯は朱玫が必ず異心を抱くと察し「関城は小邑で六師を駐めるに足りない、速やかに梁州に幸すべきです」と奏した。翌日、車駕は陳倉を離れ、関に入るとすぐ邠・岐の兵が宝鶏を囲み散関を攻めた。緯の言がなければ危うかった。

昭宗朝の重用と死

  • 褒中に至り兵部侍郎・同中書門下平章事に改められ、まもなく中書侍郎・集賢殿大学士に改められた。王行瑜が朱玫を斬り京城を平定すると、門下侍郎・監修国史に遷り、駕に従って京に還り、岐陽に駐蹕する間に特進・吏部尚書を兼ね、諸道塩鉄転運使を領した。車駕が宮に還ると左僕射に進み、「持危啓運保乂功臣」の号を賜り、食邑四千戸、食実封二百戸、鉄券を賜り十死の罪を恕され、天興県荘・善和里宅各一区を賜り、あわせて京畿営田使を領した。
  • 僖宗が崩じると山陵使を充て、僖宗の祔廟に際しては緯は故事に準じ入朝しなかった。昭宗は中使を遣わし延英殿に召し、旧のごとく視事させ、司空に進めた。国学が失火で焼けたため緯に修葺を命じ、あわせて国子祭酒を領させた。蔡賊秦宗権が誅されると開府儀同三司に進み、司徒に進位し魯国公に封じられた。
  • 11月、昭宗が郊廟を謁するにあたり、両中尉・内枢密が朝服を求めた。所司は前例を調べ、中貴人に朝服助祭の礼はなく少府監にもその素制の冠服はないと申したが、中尉は怒り制作を命じ太常礼院に下した。礼官は故事を挙げて中尉朝服助祭の文もないとし、諫官もこれを論じた。緯は「中貴が朝服を着けず助祭しないのは国典である。陛下が権道をもって内臣を寵せられるなら、その兼ねる官に依った服にすべきです」と奏した。天子は諫官を召し「大礼が近いので異を立てず朕のために許してほしい」と言い、内官は朝服で助祭することとなった。郊礼が終わると太保を兼ねるに進んだ。
  • 大順元年(890年)夏、幽州・汴州が太原討伐を請うた。宰臣張濬は自ら禁軍を率い招討となることを請い、上は疑い決めかねて緯に策を問うた。緯は討伐を可とし、その詳細は「張濬伝」にある。その年秋、濬の軍は太原に撃たれ大敗して還った。濬は罷相・貶官され、緯は濬に付いたことに坐して検校太保・江陵尹・荊南節度観察等使とされ、闕下を離れないうちに再び均州刺史に貶された。緯・濬は密かに人を遣わし汴州に援を求め、朱全忠が上章して弁護した。緯が商州に至ると就便を許す詔があり、華州に寓居した。
  • 乾寧2年(895年)5月、三鎮が京師に入り宰相韋昭度・李谿を殺した。帝は大臣が朋党を組み外藩と交わることを憂え、骨鯁正人を用いようと中使を華州に遣わし緯を朝に召したが、病のため上路できなかった。6月、太子賓客を授けられ、その日の夕方吏部尚書に改められ、翌日司空を拝し、門下侍郎・同平章事・太清宮使、修奉太廟・弘文館大学士・延資庫使を兼ねた。階爵・功臣名・食邑はすべて以前のままとされた。旬日のうちに駅騎の督促が路に相望み、病を扶けて京師に至った。
  • 延英殿での中謝で「臣は先に罪を待つ宰相として智術浅く弼諧に負くところがありました。陛下は特に刑書を貸し腰領を全うさせてくださった。臣は泉壌に死をもって報いる期を持つのみで生きて玉階に叩頭できるとは望みませんでした。再び龍顔を拝すること、実に臣の栄幸です。しかし臣は近ごろ衰疾に嬰り数年枕に伏し、形骸はあれど生意は尽きております。平生でも事に禦するのが疎かでしたのに、まして今のような羸弱で重責に堪えられましょうか。国祚はまさに泰らかで英彦は朝廷に満ちているのに、どうして朽腐の身を再び機務に塵させられましょう。臣は力を尽くし殿庭に一拝いたしますが、どうか陛下、臣が自ら退くことをお許しください」と奏し、嗚咽して涙を流した。緯は久しく病んでおり拝礼にも難儀したため、上は中使に止めさせ、容を改めて憐れんだ。閣門使に緯を中書に送らせ視事させた。旬日を経ずして沙陀が河中に迫り、同州の王行約が京師に入って謀反、天子は石門に出幸した。緯は駕に従って莎城に至ったが病がにわかに篤くなり、先に京城に還った。9月、光徳里の第で卒し、太尉を贈られた。

節義と孔氏の家系

  • 緯の家は節義を尚び、毅然として屈しなかった。権勢が盛んな者にも、いまだかつて恩礼を仮したことはなかった。大順の初め、天武都頭李順節は寵を恃んで横暴であったが、一年足らずで浙西節度使を領し、まもなく平章事を加えられた。謝恩の日、台吏が中書に「天武相公が衙謝するので前例に準じ百僚の班に見えさせたい」と申し出たところ、緯は「班に立たせるに及ばず」と判じた。順節は粗暴な小人で朝法に疎く、盛装して中書に赴いたが班がないと知り、内心不満に思った。のちある会合で順節がそれをやや口にすると、緯は「あなたの不満はよく分かる。百辟卿士は天子の廷臣であり、近ごろ宰相に班見するのは輔臣を班列の首に置き、長を奉る義に基づくもの。あなたは天武の健児を握り、政事庁で百僚の班見を受けようとするが、それで心が安まるだろうか。もしどうしてもこの儀を望むなら『都頭』の二字を去ってからにされよ」と答え、順節はそれ以上何も言えなかった。緯が礼を守って回らないことは、こうした類が多かった。
  • 孔氏は元和以後、一族が貴盛を極め正卿・方鎮に至った者が六、七人あったが、いまだ宰輔となった者はなく、緯に至って初めて鼎司に列した。

孔緯子 崇弼

  • 子の崇弼も進士に登第し、散騎常侍に至った。