舊唐書卷一百七十九 列傳第一百二十九 蕭遘
蕭遘、蘭陵の人、開元の宰相蕭嵩の四代の孫(?–887年頃)。咸通5年に進士に及第し、韋保衡の恨みを買って一時左遷されたが、のち宰相となった。田令孜の専横に屈せず朱玫を召したが、朱玫による廃立の企てには与せず、最終的に朱玫政権に関与した罪で賜死された。
年表(4件)
- 咸通5年864年進士に及第する
- 乾符の初め(頃)874年翰林学士に召される
- 中和元年3月881年同平章事となり中書侍郎を加えられる
- 光啓の初め(頃)885年天子にその才を重んじられるが、諸侯の専横が進む
出自と経歴
- 蕭遘は蘭陵の人。開元朝の宰相・太師徐国公蕭嵩の四代の孫。嵩→衡→復(徳宗朝宰相)→湛→寘(咸通中の宰相)→遘と続く家系。
- 咸通5年(864年)に進士に及第し、秘書省校書郎・太原従事を経て、朝に入り右拾遺、のち起居舎人に累遷した。
- 韋保衡と同年の進士だったが、保衡は寵愛のみで才能に乏しく、同年の門生たちから軽んじられていた。
保衡との確執と播州左遷
- 遘は容姿すぐれ志操も凡ならず、自ら李徳裕になぞらえたため、同年の者たちに戯れに「太尉」と呼ばれた。保衡はこれを恨みに思っていた。
- 保衡が宰相になると遘の落ち度を摘発し、播州司馬に左遷した。三峡を渡る途中、月夜に舟を留めて詩を賦し自らを悼んだ。保衡に害されることを恐れていたところ、にわかに神人が現れ「相公よ憂うるなかれ、我が守り仕えよう」と告げ、遘は不思議に思った。峡州を過ぎ白帝祠を経ると、まさにその神人の姿があった。
- 保衡が誅殺されると礼部員外郎として召還され、考功員外郎・知制誥に転じた。乾符の初め(874年頃)翰林学士に召され、正しく中書舎人に任じられ、戸部侍郎・翰林承旨に累遷した。
黄巢の乱と宰相就任
- 黄巢が宮闕を犯し僖宗が蒙塵すると、供給が不足したため近臣に会計を掌らせる必要が生じ、兵部侍郎・判度支に改められた。
- 中和元年(881年)3月、褒中から成都に幸する途上、綿州に至ったとき、本官のまま同平章事となり、中書侍郎を加えられ、吏部尚書・監修国史を兼ねるに至った。
- 遘は若くから大節を重んじ経世済民を己の任とし、台司に処してからは風望とりわけ高く、天子にその才を重んじられた。光啓の初め(885年頃)、王綱は振るわず、天下の諸侯は半ば群盗より出て、強弱互いに相食み、衆を恃んで寵を求め、国法もこれを制することができなかった。
李凝古・李損の獄
- 徐州節度使時溥の従事李凝古は、支詳が衙将時溥に追われた際に賓佐として徐州にとどまっていた。時溥が節度使となって食中毒に遭うと、凝古を憎む者が「支詳のために報復し毒を盛った」と讒言し、時溥は凝古を捕らえて殺した。
- 凝古の父李損(当時右常侍)に対し、時溥は「損が凝古と共謀した」と上奏。内官田令孜は時溥から厚い賄賂を受けて損の下獄を強く奏請した。中丞盧渥は令孜に付き、獄を鍛え上げようとしたが、侍御史王華は堅く損の無罪を主張した。令孜は怒って損を神策軍の獄に移すよう奏したが、王華は詔を奉じず「李損は近侍の位にあり、死ぬべきなら死ねばよいが、どうして黄門の手に辱められてよいものか」と抗弁した。
- 遘は非常の時を選んで進状し、延英殿を開くよう請い、「李凝古の毒殺の謀はその事情が曖昧なまま既に誅殺されており、今さら論ずるまでもない。李損父子は三、四年別れたまま音信も絶えているのに、どうして共謀と誣告できようか。時溥は勲功を恃んで法を壊し朝廷を凌蔑し、あまつさえ表を抗して侍臣の糾問を求めるとは、あまりに悖戻ではないか。良善を厚く誣いており、人はみな痛心している。もし李損が羅織の罪で誅されれば、その禍は程なく臣らにも及ぶだろう」と奏した。帝はこれに動かされ、損は罪を免れ停任にとどまった。
田令孜との対立と朱玫の擁立
- 当時、田令孜は禁軍を専断し、公卿百官は皆その顔色をうかがっていたが、遘だけは道義をもって自らを持し、屈することがなかった。その年の冬、令孜は安邑両池の塩利を禁軍に直属させるよう奏請した。王重栄がこれに反対の章を上げると、令孜は重栄を他鎮へ移すよう奏し、重栄が従わないと禁軍を率いて討とうとした。重栄は太原に援を求め、李克用が軍を率いて赴き、沙苑で交戦、禁軍は大敗して京城に迫った。
- 僖宗は恐れて鳳翔に出幸した。諸藩は令孜の生事・離間を論難する章を上げた。遘はもとより令孜を憎んでおり、裴澈とともに書を送って朱玫を召した。玫は邠州の兵五千で駕を迎え、河中・太原とも和を修め、王室を共に匡すことを請うた。これにより諸鎮が相次いで駕の還京を請う章を上げた。
- 令孜は玫の軍が至ったと聞くと天子を脅して陳倉に幸させた。僖宗が夜中に慌ただしく出城したため百官の多くは扈従できなかった。玫は令孜の弄権に怒り、また天子が己の忠を諒とせぬことを怨み、遘に訴えて「主上は6年間播越し百端の艱険を嘗め、中原の士庶は賊と血戦し肝脳を地に塗り十室九空となった。ようやく京都を収復し十のうち七、八を失ったが、残民遺老はようやく車駕の帰宮を喜んだ。それなのに主上は生霊輸送の労苦や甲士血戦の功を思わず、勤王の功業を宦官の寵栄に代え、乱を好み戎を招いて怨みを結んだ。昨日指図を奉じ問安に馳せ参じたのに信じてもらえず、脅君の類に扱われた。昔から忠にして罪を得るとはまさにこれだ。我らの報国の心は極まり、賊と戦う力も尽きた。どうして頭を垂れ翼をたたみ、閹寺の手のもとで喘ぐことができようか。『春秋』の義に『喪君有君』とある。相国よ、よくよく思案し改図されよ」と告げた。
- 遘は「主上は臨御10余年、過ちを聞かない。近年の喪乱播越は任用の人を得なかったためであり、令孜が掣肘して意のままにならぬことを上は常々語り涙を流されている。先日陳倉に去った際も上に行く意はなく、令孜が帳下に兵を陳ね階前に卒を列ねて強いて出発させ、夜明けを待つことも許さなかった。この賊の罪は誅に値する。至尊の御心はこれを深く鑒みておられぬはずがない。足下が王室に心を寄せるなら、兵を還し鎮に帰り、表を拝して鑾を迎えるのが徳業功名を図史に光らせる道である。それ以外は道理として穏当ではない。改図の言は承れない」と答えた。
- 玫は「李家の王子は極めて多く、天下を有つ者が一人の王だけとは限らない」と言った。遘は「廃立は危事であり、伊尹・霍光の賢をもってしても後悔を残した。古人は『福の始めをなすなかれ、禍の先をなすなかれ』と言う。公の謀は利を見ない」と答えた。玫は退いて「私が一王子を主に立てる、従わぬ者は斬る」と宣言し、襄王を立てると遘に冊文を請うた。遘は「病に衰え文思も減じた。近ごろ禁署では人に代筆させることも免れなかった、能ある者に命じられよ」と言い、ついに筆を執らなかった。そこで鄭昌図に命じて作らせ、玫はますます不満を募らせた。
- 長安に還ると昌図を遘に代えて相とし、遘には太子太保を署した。遘は病と称して官を退き、100日を満たすと河中の永楽県に退居した。
失脚と死
- 遘は相位に在ること5年、尚書右僕射を累兼し、楚国公に進封された。僖宗が再び京に遷ると、宰相孔緯は遘と折り合いが悪く、偽命(朱玫の擁立した政権)を受けたことを理由に官を貶めるよう奏し、まもなく永楽で賜死された。
- 咸通中、王鐸が貢挙を掌ったとき、遘は韋保衡とともに進士に中選し、保衡は急に貴顕となり鐸と同じく中書に在った。僖宗が蜀に在ったとき、遘も鐸とともに相位にあった。帝がかつて宰臣を召したとき、鐸は年高く階を昇るとき足を滑らせ勾陳の中に倒れ、遘が傍らから助け起こした。帝はこれを見て「輔弼の臣が和するのは私の幸いだ」と喜び、遘に「先ほど卿が王鐸を扶けるのを見て、卿が年長者によく仕えるのを喜んだ」と言った。遘は「臣が王鐸を扶けたのはただ年長だからだけではない。臣が挙に応じた歳、鐸は主司であり、臣は中選の門生だからです」と答えた。上は笑って「王鐸は進士を選び、朕は宰相を選んだ、卿には負けていない」と言い、遘は謝して退いた。
- 遘は大臣として士人の行いに欠けるところがなかった。時に遭って不幸となり、偽の襜(朱玫政権への関与)に汚され、令終を得られなかったことを、人々は惜しんだ。
蕭遘弟 蘧
- 弟の蘧は、当時永楽県令であった。