舊唐書卷一百七十八 列傳第一百二十八 王徽

出自

  • 王徽、字は昭文、京兆杜陵の人。その先祖は梁の魏に出た。魏が秦に滅ぼされると始皇帝は関東の豪族を関中に移し魏の諸公子は霸陵に移された。もと王族であったことから王氏を名乗った。後周同州刺史の熊は徽の十代祖で咸陽の鳳岐原に葬られ子孫はそこに家した。曾祖の擇の従兄の易従は則天朝に進士第に登った。従弟の明従・言従は睿宗朝に共に進士第に登った。昆仲四人は開元中に三人まで鳳閣舎人に至り、当時「鳳閣王家」と称された。その後、易従の子の定、定の子の逢、逢の弟の仲周、定の兄の密、密の子の行古、行古の子の収、収の子の超はいずれも進士第に登った。王氏は易従以降大中朝に至るまで進士科に登った者は十八人、台省に登り牧守・賓佐を歴任した者は三十余人に及んだ。擇は大足三年に進士第に登り、先天中、さらに賢良方正の制挙に応じ乙第に昇り再遷して京兆士曹参軍となり麗正殿学士を充てた。祖父の察は至徳二年に進士第に登り位は連州刺史に終わった。父の自立は位が緱氏令に終わった。

徽――出自と初期の経歴

  • 徽は大中十一年に進士第に登り秘書省校書郎から出仕した。戸部侍郎の沈詢が度支を判じると巡官に招いた。宰相の徐商が鹽鐵を領すると参佐に奏した。当時宣宗は宰相に進士の中から公主の婿となる子弟を選ばせる詔を出し、あるいは徽の名が上聞した。徽は性が沖淡で勢利を遠ざけ、これを聞くと憂いが顔色に現れた。徽が及第した時は既に四十を超えており、宰相の劉瑑に会って哀れみを乞い年齢が既に高く常々病がちであることを詳しく述べ禁臠(皇室の婚姻)を汚すには足りないと訴えた。瑑が上前で述べたことでようやく免れた。令狐綯に従い宣武・淮南の両鎮の掌書記を歴任し大理評事を得た。右拾遺として召し拝され、前後に上疏して事を論ずること二十三回、人が言いにくいことでも必ず顔色を犯してこれを争い、人々は皆これを称賛し重んじた。

徐商との縁

  • 徐商が罷相し江陵に鎮すると、徽が旧僚であったことから招聘しようとしたが言い出せずにいた。徽はその意を察して即座に「私は進士の身で公の重い眷顧を受けています、公が印を佩び戎を率いる以上、下官がどうして従わずにいられましょうか」と述べた。商は大いに喜び殿中侍御史を奏授し緋を賜り荊南節度判官とした。

吏術の評価と翰林学士拝命

  • 高湜が当時憲綱を掌り侍御史知雑・兼職方員外郎に奏し考功員外郎に転じた。当時考簿の上中下の字は朱書されていたが吏が奸をなし改竄が多かった。徽は僕射に墨書に改めるよう進言し奸吏の弊を絶った。宰相の蕭倣は徽が吏術に明るいことをとりわけ重んじた。乾封初、司封郎中・長安県令に遷った。学士が欠員となると倣は徽を翰林学士に用い職方郎中知制誥に改め正式に中書舎人を拝した。延英での中謝の際、面と向かって金紫を賜り戸部侍郎・学士承旨に遷った。兵部侍郎・尚書左丞に改められ学士承旨は元のままであった。

黄巣の乱――京師脱出の苦難

  • 広明元年十二月三日、戸部侍郎・同平章事に改められた。この日、黄巣が潼関に入り、その夜僖宗が出幸した。徽は同僚の崔沆・豆盧瑑、僕射の于琮と共に夜明けになってようやく車駕が出幸したことを知り、それぞれ行在に馳せ参じようとした。徽は夜、荊棘の中に迷い崖谷に墜ち賊に捕らえられ京師に連れ戻された。偽命を授けようとされたが、徽は足を折り口が利けないと見せかけ、白刃に囲まれてもついに恐れる色を見せなかった。賊は徽を輿で邸に帰らせ医者に診させた。一月余りして監視者がやや怠るようになると、徽は行商人に紛れて河中に逃れ、間道を通じて絹に書いた表を蜀に送った。

復権と献策

  • 天子はこれを嘉し詔により光禄大夫・守兵部尚書を授けた。行在に赴こうとした際、まもなく徽に本官のまま東面宣慰催陣使を命じる詔が下った。当時王鐸の都統行営兵馬は河中にあり数年にわたり賊を破れずにいた。徽は行営都監の楊復光と謀り沙陀三部落を赦し難に赴かせることを図った。その年夏、代北軍が到着し決戦を重ねて勝ち京師を収復した。功により尚書右僕射を加えられた。

澤潞・昭義への出鎮

  • 光啓中、潞州で軍が乱れその帥の成麟を殺し、兵部侍郎の鄭昌図が権知昭義軍事となった。当時孟方立が山東三州を割拠し別に一鎮を成していた。上党の支郡はただ澤州のみであったが軍中の人々の多くが方立に付き昌図は制することができなかった。宰相は重臣を鎮に置くよう奏し、徽が検校尚書左僕射・同平章事・潞州大都督府長史・澤潞邢洺磁観察等使を授けられた。当時鑾輅(帝の車)はまだ還らず関東は盗が集まっていた。そして河東の李克用と孟方立がまさに澤潞を争っていた。朝廷の兵力が及ばないと見て徽は上表して訴えた。
  • 才を量り任を授けるのは民を安んずるためであり上に奉じ忠を推すのは国を体するためであるとし、自らは早く昌運に逢い華資を歴任し誠を尽くすことに専念し躁進の跡がなかったこと、六年内職にあり侍従の栄に叨ったが一日台司に就いても匡扶の志を展べていないと述べた。あえて急病を忘れることなく憂勤に応えたいとし、まして重鎮の兵符・元戎の相印を特に寵寄され宸衷から出たものである以上、労を憚らずさらに衷款を陳べるべきだが、鄭昌図が留を主って数ヶ月、根を深く結ぼうとし孟方立が三州を専有し次第に釁を積んでいることを述べた。外に招けば潞人は皆怨み内を撫すれば邢の将はますます疑う、禍がすでに燃え広がった今どう計るべきか、勝負を見て初めて安危を決すべきであると述べ、命に従い勇んで行けば百慮に悩むことになり、身を保って先に退けば事体が両全することになると述べた。聖慈により広く廷議を求め任すべき人を選ぶことが道理にかなうとし、微臣が寵を負う譏りを免れさせ上党が必ず争う勢いにあることを示してほしいと請うた。籓(潞州)に触れて難を知ることは前言に恥じないためであり、報国図功はこの日に限られたものではないと結んだ。
  • 天子は昌図に鎮を任せ、徽を諸道租庸供軍等使とし他の官は元のままとした。

京師復興

  • 当時京師収復の後、宮寺は焼かれ園陵は毀廃され、それゆえ車駕はなお還らずにいた。そこで徽は大明宮留守・京畿安撫制置・修奉園陵等使とされた。徽は財賦を治めながらさらに制置を兼ね、王畿の人々の多くが流亡や死喪に遭う中、離散した民を招き集め子のように撫した。数年のうちに戸籍は次第に整い東内の斎閣も修復が順序立って進んだ。徽は表を上げ車駕の還京を請うた。
  • 表では、先の狂賊が逃れようとした際は災いがまさに甚だしかったが、端門・鳳畤(皇居)は福地として独り残り王気は龍が蟠るように祥雲を鬱として散らさずにいると述べ、これは宗廟が福を降し臨御が遠くないことを示すものだとした。今は初めて修崇を議したばかりでまだ全く壮麗ではないが卑宮の倹を示すことでかえって馭道の尊が凝るとし、肅宗がかつて捷報を見るとすぐ岐下を離れ徳宗が盛夏でも漢中に留まらなかった故事を引き、故事があるからには昌期を緩めがたいとして早く鑾輅を返し京師に復すことを願った。臣は謬って散材の身で重い任を叨り、閣を閉じて深く思案し表を拝して度々陳べてきたが、時事の安危と廟謀の得失に関わる問題であるとし、随宜制置し力を尽くして撫綏していても鑾駕が還らなければ人心が再び散る恐れがあり、多少の効果があっても結局は殊私に背くことになると述べた。この状況は必然であり過度に慮るのが道理であるとし、この滞留がかえって機宜を失うことになる、永く聖聴に留め早く清蹕(帝の巡幸)を還してほしいと結んだ。帝はこれを深く嘉納し検校司空・御史大夫を進位させ京兆尹事を権知させた。

権臣との軋轢

  • 中外の権臣が人を遣わし京師で邸を治めさせた際、乱後に乗じて居民を侵犯することが多く百姓の告訴が相次いだ。徽は権豪を憚らず法により平らかに裁いた。これにより残された民は業に安んじたが、権幸はこれを疎ましく思い側目視した。彼らの党の薛杞を少尹に用い府事を知らせようとしたが、杞は父の喪に居る身であり、徽は執奏してこれを府に入れなかった。権臣はますます怒り徽の使務を罷めさせる奏を上げ、本官のまま行在に召還させた。まもなく太子少師を授けられ、病と称し蒲州に退居した。十旬経つと辞任を請うた。僖宗が宮に還ると再び太子少師を授けられたが病により朝謁できなかった。宰相は徽が怨望していると奏し集州刺史に貶し、徽は病を押して貶所に赴いた。十日も経たぬうちに沙陀が京師に迫り僖宗は宝雞に出幸し軍容の田令孜が咎めを受けた。天子は徽に罪がないとして吏部尚書として召し拝し瑯邪郡侯・食邑千戸に封じた。

大乱の中での節義

  • 徽が行在に赴こうとしていた頃、襄王が僭偽を称した。邠・岐の兵士が乗輿に迫った。天子は漢中に幸したが徽は進めなかった。李熅の偽制が河中府に至り徽を闕に召した。徽は風疾を理由に歩けないと称した。熅が僭号しようとし内外の臣僚に誓状に署名させようとしたが、徽は腕が緩んで筆を執れないと称し結局署名しなかった。

硃玫誅殺後の復権

  • 硃玫が誅されると天子は褒中から京に還る途上、鳳翔に至り徽を召し御史大夫を拝した。車駕が宮に還ると、徽は足膝の風痺のため朝拝に堪えないとして散秩の授与を上章し願い出、再び太子少師を授けられた。便殿での中謝の際、昭宗は徽の姿を見て応対しながら「王徽の神気はなお強い、自ら安楽に過ごすべきではない」と述べ、吏部尚書に改め授けた。大乱の後、銓選の秩序が乱れ吏が奸をなし重複して補ったり擬したりされる例があった。徽は初めから注授を自ら手歴(記録)に置き一つ一つ検視し、人が滞ることがなかったため内外に称された。検校司空に進み尚書右僕射を守った。大順元年十二月に卒し、太尉を贈られ諡は貞。
  • 子は三人、椿・樗・松。

史論

  • 史臣曰く、用兵を議することの難しさは古来百勝することがなく、権を行い変に制することの法は臨機の断にあり、奇を出すのに窮まりないその実は的中の中にかかっている。かつて晋国が孫皓を平らげようとした際、賈公閭(賈充)は堅く渡江を阻んだ。呉人が曹瞞(曹操)を拒もうとした際、張輔吳(張紘)はついに失策を恥じた。彼らのような賢俊でも悔尤を免れなかった。まして盧子昇(携)は平代の書生で元来軍事の知識に迷い、ただ高駢の平時の評判だけを頼みに高駢の隠された企図を推し量れなかった、これにより力は黄巣に困り毒は都に流れ、喉を絶ち薬を仰いで死ぬ結果に、何の益があったろうか。台文(畋)は気概を激して壮図を持ち志は宿憤を吐き出し、慷慨として衆に誓い叱咤して戎に臨み、ついに賊の喉を扼して天歩を康んじた、これを不武と言えようか、そうでなければ何をもって武と言えようか。崔(彦昭)・趙(隠)は鼎職をもって親に仕え天倫がいずれも達し、慶を積み裕を垂れ美を士林に広めた。徽は盗泉を吐く志を持ち虎口から身を脱し功名を落とさなかった、君子はこれを多とする。

  • 賛に曰く、武をもって威を伸ばし謀をもって敵を制する、必ずしも戎に臨む必要はなく、師を陳ずるは衽席(日常の場)にもある。高駢は賊を玩び盧攜は奸を保った。聖断が一度誤れば、劍山の道は険しく困難となる。