出自と経歴
- 夏侯孜、字は好学、もと譙の人。父は審封。孜は宝暦二年に進士第に登り諸侯府から出仕し累進して婺・絳の二郡刺史に至った。入朝して諫議大夫となり給事中に転じた。十年、刑部侍郎に改められ、十一年、御史中丞を兼ね尚書右丞・上柱国に遷り紫金魚袋を賜った。十一年二月、朝議大夫に遷り戸部侍郎を守り戸部事を判じた。再び兵部侍郎を加えられ諸道鹽鐵転運等使を充てた。懿宗即位後、本官のまま同平章事となり使を領することは元のままであった。累加して左僕射・門下侍郎に至り譙郡侯に封じられ、路巖・楊収と共に輔政した。咸通八年、罷相し検校司空・同平章事・兼成都尹・充剣南西川節度使となった。南蛮が入寇し蜀中は飢饉で軍儲が備わらず蛮が巂州を陥落させ蜀川は大いに乱れた。まもなく孜は河中尹・検校司徒・河中晉絳節度使に移された。
蜀の失政による貶謫
- 九年、龐勛が徐州に拠り南蛮が深く侵入した。天子は孜の蜀治の失政を懲らし詔を下した。河中晉絳磁隰節度使・開府儀同三司・検校司徒・同中書門下平章事・河中尹・上柱国・譙郡開国公・食邑二千戸の夏侯孜は、早くから文詞により科第に登り清貫を歴任し能名もあったこと、東陽(婺州)で撫俗の能を発揮し絳州で臨人の称を得たこと、その後憲台(風憲)を掌り籓条を寵領しいずれも公才により時の選に応えたこと、経費を掌り重難を経て均平の道を得たことなどが称えられたが、彼の辺隅(西川)に念を移し巴蜀に赴き才術を頼みに再び蛮陬を鎮めさせたところ、かえって帑廩が空虚となり軍資が窘竭し冤罪が境内に流れ寇が連なる家々に迫る結果を招いたこと、帥を代えて以来頻繁に人事が動いても無備の後は歳ごとに干戈が絶えなかったことを述べ、近頃境が初めて安んじたと思えばすぐに瘡痍が再発したとして、事実を尋ね根本を検証した結果、経済の源に背き君臣の義にも昧いことが判明したとし、近籓には処しがたいとして散秩に改めるとして太子少保・分司東都とした。まもなく卒した。
- 子の潭・沢はいずれも進士第に登った。潭は累官して礼部侍郎に至り、中和三年の選士では卿相に至る者が多かった。子は坦。