出自
- 路巖、字は魯瞻、陽平寇氏の人。祖父の季登は大歴六年に進士第に登り累く諸侯府に招かれた。朝に登り尚書郎となり左諫議大夫に遷り卒した。三子、群・庠・単はいずれも進士第に登った。
群
- 群、字は正夫、進士に及第しさらに書判抜萃に登り累く使府を佐した。入朝して監察御史となった。穆宗初即位、西北辺に軍士の犒宴を遣わした際、旨にかない累加して兵部郎中に至った。太和二年、諫議大夫に遷り本官のまま侍講学士を充てた。四年、侍講を罷め翰林学士となった。五年、正式に中書舎人を拝し学士は元のままであった。
- 群は経学に精しく文をよくした。性は仁孝で誌行は貞潔、父母の没後は終身葷血を口にしなかった。台閣を歴任し時の君の異例の寵を受けても勢位を自ら誇ることはなかった。士友と交わっても栄達しても変わらなかった。八年正月に病で卒し君子はこれを惜しんだ。二子、嶽・巖は大中中に相次いで進士第に登った。
巖――宰相への道と失脚
- 巖は幼くして聡敏さが人に優れていた。父の友人が方鎮にあった際、書幣を送り招かれたが久しくして応じた。数年のうちに禁署に出入りするようになった。累進して中書舎人・戸部侍郎に至った。咸通三年、本官のまま同平章事となった、時にわずか三十六歳。相位にあること八年、累く左僕射を兼ねた。懿宗の時代、王政は多く偏り宰臣が用事した。巖は委任を受けると次第に奢靡を務め賄賂を通ずるようになった。韋保衡が公主を娶り元来巖の人柄を憎んでいたところ、保衡が宰相になると巖の知政事を罷め検校左僕射として成都尹・剣南西川節度使に出した。まもなく荊南節度に改められた。詔で六月に峡を下り鎮に赴くよう命じられたが、まもなくこれも取りやめられた。
- 嶽は両郡の刺史を歴任し入朝して給事中となった。子は徳延。