出自と人柄
- 裴休、字は公美、河内済源の人。祖父は宣、父は粛。粛は貞元中に常州刺史から兼御史中丞・越州刺史・浙東団練観察等使となった。当時山賊の栗鍠が山越を誘い乱を起こし浙東の郡県を陥落させた際、粛は州兵を召集し討伐平定し、その顛末を記した『平戎記』を撰し献じた。徳宗はこれを嘉賞した。
- 粛には三子があり、儔・休・俅、いずれも進士第に登った。休は志操堅正であった。幼少時、兄弟が共に済源の別荘で学んだ際、休は一年間別荘の門を出ず昼は経籍を講じ夜は詩賦を課した。猟師が鹿を儔に贈った際、儔・俅がこれを炙り休を呼んで食べさせようとしたが、休は「我らは貧しい身で菜食すら十分でないのに、今日肉を食べれば明日どう続けるのか、食を改めるべきではない」と述べ、独り食べなかった。長慶中、郷試を経て及第し、さらに賢良方正に応じ甲科に登った。太和初、諸籓の招聘を歴任し入朝して監察御史・右補闕・史館修撰となった。会昌中、尚書郎から数郡の刺史を歴任した。
漕運改革
- 大中初、累官して戸部侍郎となり諸道鹽鐵転運使を充て、兵部侍郎・兼御史大夫に転じ使を領することは元のままであった。六年八月、本官のまま同平章事となり判使は元のままであった。太和以来、重臣が使を領しても江淮からの漕米は年に四十万石を超えず、渭河倉に到達できるものは十分の三四に過ぎなかった。漕吏は狡猾で不正が多く、官船の沈没は年に七十余隻に及んだ。沿河の奸吏は劉晏の法を大いに乱していた。休が使を領すると僚佐を分けてその弊を厳しく調べさせた。これにより経由地の地方すべてで県令に漕事を兼ねさせ有能な者を奨めた。江津から渭口まで四十万の傭賃を歳計緡銭二十八万貫とし、すべて漕吏に帰し巡院に侵牟させなかった。新法十条を挙げ奏して行い、また税茶法二十条を立て奏して行い、世論はこれを是とした。
- 休が使を掌ること三年、渭河倉に至る漕米は百二十万石に達し沈船の弊はなくなった。累進して中書侍郎・兼礼部尚書に至った。休は相位に五年あった。
晩年
- 十年、罷相し検校戸部尚書・汴州刺史・御史大夫・充宣武軍節度使となった。その年冬、金紫光禄大夫・上柱国・河東県子・食邑五百戸に進階し太子少保を守り分司東都となった。
- 十一年冬、検校戸部尚書・潞州大都督府長史・御史大夫・充昭義節度・潞磁邢洺観察使となった。十三年十月、検校吏部尚書・太原尹・北都留守・河東節度観察等使を加えられた。十四年八月、本官のまま鳳翔尹を兼ね鳳翔隴州節度使を充てた。
- 咸通初、入朝して戸部尚書となり累進して吏部尚書・太子少師に至り卒した。
人物と信仰
- 休は性が寛恵で官として厳しい詮索を尚ばず、吏民に畏服された。文をよくし書翰に長け自ら筆法を成した。家は代々仏を奉じ休はとりわけ経典に精しかった。太原・鳳翔は名山に近く僧寺が多かった。政務の合間に山林を歩き義学僧と仏理を講じた。中年以後、葷血を食さず常に斎戒し嗜欲を屏した。香炉や仏典は斎中を離れず詠歌讃唄を法楽とした。尚書の紇幹皋と共に法号を字とし合った。当時の人はその高潔を重んじつつも度が過ぎることを鄙み言葉で嘲ることが多かったが、休はこれを意に介さなかった。
- 俅、字は冠識、こちらも進士第に登った。休の子は攴。