舊唐書卷一百七十七 列傳第一百二十七 崔珙

出自

  • 崔珙、博陵安平の人。祖父は懿。父の颋は貞元初に進士第に登った。元和初、累官して少府監に至り、四年、同州刺史に出て卒した。颋には子が八人あり皆達官に至り、当時の人は漢の荀氏に比し「八龍」と称した。

長兄 琯

  • 長男の琯、貞元十八年に進士第に登り、さらに制策に登科し諸侯府から出仕し入朝して尚書郎となった。太和初、累進して給事中に至り幽州の宣慰は帝旨にかなった。まもなく興元で兵乱が起こり李絳が殺された際、琯に褒中で乱を平定させると三軍は静粛に命に従った。使が戻ると工部侍郎に改められた。四年冬、京兆尹を拝し、五年四月、尚書右丞に改められ、六年十二月、江陵尹・御史大夫・荊南節度使に出た。八年、入朝して兵部侍郎となり吏部に転じ左丞事を権判した。開成二年、正式に左丞を拝した。当時弟の珙が京兆尹で兄弟が共に顕職にあった。本官のまま兵部西銓・吏部東銓事を権判した。三年、検校戸部尚書・判東都尚書省事・東都留守・東畿汝都防禦等使となった。会昌中、銀青光禄大夫・検校吏部尚書・興元尹に遷り山南西道節度使を充てた。弟の珙が罷相し貶官されたことにより琯も罷鎮し東都に帰った。五年に卒した。詔で「孔氏は顔回・冉求の行いを四科の首とし漢代は荀氏・陳氏の門を『八凱』に比した、時哲の徳を得たこの令名を用い飾終の恩を挙げ殲良の嘆を抒べる」として、その誠明履正・粛密隣幾ぶりを称え尚書左僕射を贈るとされた。

珙――出自と初期の経歴

  • 珙は琯の母を同じくする弟であった。書判抜萃の高等により累く使府を佐した。性は威重でとりわけ吏術に精しかった。太和初、累官して泗州刺史に至り、入朝して太府卿となった。七年正月、広州刺史・嶺南節度使を拝した。延英での中謝の際、帝が南海の撫理の宜しきを問うと珙は明弁に対え帝は深くこれを嘉した。当時高瑀が徐州に鎮し智興の後を承け軍が驕り制しがたく軍士がたびたび法を犯していたため、上は威望ある帥を選ぼうとしたが久しく人材を得られなかった。珙が慷慨として事を述べたのを見て宰臣に「崔珙の言事は神気精爽だ、これなら徐人に臨める」と評した。王茂元を珙に代え広南に鎮させ、珙には兼検校工部尚書・徐州刺史・兼御史大夫・充武寧軍節度・徐泗濠観察使を授けた。

京兆尹としての善政

  • 開成初、検校兵部尚書を加えられた。二年、検校吏部尚書・右金吾大将軍・充街使となった。六月、京兆尹に遷った。この年、京畿は旱害に見舞われ、珙は浐水が内に入る水量の九割を減らし貧民に灌漑田を賜うよう奏し、従われた。三年正月、親仁裏で盗が発生し宰相の李石を殺そうとした。その賊は禁軍から出ていたが、珙は盗の捕縛に失敗した責を負い罰俸された。会昌初、李徳裕が用事し珙と親しく、累進して戸部侍郎となり諸道鹽鐵転運等使を充てた。まもなく本官のまま同中書門下平章事となり累く刑部尚書・門下侍郎を兼ね銀青光禄大夫に進階し尚書左僕射を兼ねた。元来崔鉉と不仲であったが、李讓夷が鉉を推し輔政させると珙に代わり使務を領し、珙が使を領していた際に宋滑院の鹽鐵銭九十万貫文を妄りに破損したと摭い、さらに珙がかつて劉従諫を保護したと訴えたため澧州刺史に貶され、さらに恩州司馬に貶された。宣宗即位後、赦により召還され太子賓客となり鳳翔節度使に出た。

晩年

  • 三年、崔鉉が再び知政事となると珙は病を理由に辞退を求めた。制で「将相大臣は国と体を同じくするものであり、自便を求めるならどうして従わないことがあろうか、しかし時にあらねば事を避けるに近い」としつつ、前鳳翔隴州節度観察処置等使・光禄大夫・検校尚書右僕射・兼鳳翔尹・御史大夫・上柱国・安平郡開国公・食邑二千戸の崔珙は、才能により顕要を歴任し友悌に篤く公務にも精忠を尽くしたと称え、前朝で譴責を受け南方に遠く移されたが自分の代になり嘉名を聞くようになり、要衝の地を治め国の垣翰となり謀猷を資したこと、近頃犬戎(吐蕃等)が誠を通じ故地を返還する話が進んでいることから率先して行動すべき立場にあるはずが退閑を請うたのは意外であるとしつつ、故老として優容し太子少師として分洛(東都分司)に従わせるとした。まもなく卒した。
  • 子の涓は大中四年に進士第に登った。

珙弟 瑨・璪・璵・球・珦

  • 珙の弟の瑨は書判抜萃により開成中、累進して刑部郎中に至った。会昌中、三郡の刺史を歴任し位は方鎮に終わった。
  • 璪は開成初、吏部郎中となり給事中に転じた。会昌初、陜虢観察使に出、河南尹に遷り、入朝して御史中丞となり吏部侍郎に転じた。大中初、兵部侍郎に改められ諸道鹽鐵転運使を充てた。崔鉉が再び輔政すると璪の使務を罷め検校兵部尚書・兼河中尹・御史大夫・充河中晉絳磁隰等州節度観察使とした。七年、入朝して左丞となり再遷して刑部尚書となった。子の滔は大中初に進士第に登った。
  • 璵、字は朗士、長慶初に進士第に登りさらに制策に登科した。開成末、累進して礼部員外郎に至った。会昌初、考功郎中知制誥として中書舎人を拝した。大中五年、礼部侍郎に遷り、六年、選士の際は才を得たと評された。七年、権知戸部侍郎となり博陵子に封じられ食邑五百戸を得、兵部侍郎に転じた。子は澹。
  • 澹は大中十三年に進士第に登り、累進して礼部員外郎に至り位は吏部侍郎に終わった。澹の子は遠。
  • 遠は龍紀元年に進士第に登った。大順初、員外郎知制誥として翰林学士に召され正式に中書舎人を拝した。乾寧三年、戸部侍郎・博陵県男・食邑三百戸に転じ兵部侍郎承旨に転じた。まもなく本官のまま同平章事となり中書侍郎・兼吏部尚書に遷った。天祐初、昭宗の洛陽東遷に従った。罷相し右僕射を守った。二年、柳璨と朱全忠の意に従い累く貶され白州長史となった。滑州に至る途上、白馬駅で害を受けた。
  • 遠は文才が清麗で風神は峻整、人々はその人柄を慕い当時「釘座梨(席上の珍宝)」と目された。
  • 球、字は叔休、宝暦二年に進士第に登った。会昌中、鳳翔節度判官となり入朝して尚書郎となった。子は瀆で大中末に進士第に登った。
  • 崔氏は咸通・乾符の間、昆仲子弟が官服を纏い台閣・銭籓・方鎮を歴任した者が二十余人に及んだ。大中以来の盛族として時に甲等と称された。