出自と経歴
- 盧商、字は為臣、范陽の人。祖父の昂は灃州刺史。父の広は河南県尉。商は元和四年に進士第に登り、さらに書判抜萃に及第した。若くして孤貧の身で学問に励み秘書省校書郎から出仕した。範傳式が宣歙を観察した際、従事に招かれた。王播・段文昌が相次いで西蜀に鎮すると商はいずれもその記室として佐け累進して礼部員外郎に改められた。入朝して工部員外郎・河南県令となり工部・度支・司封の三郎中を歴任した。太和九年、京兆少尹に改められ大理卿事を権判した。
蘇州での善政
- 開成初、蘇州刺史に出た。中謝の日、金紫の服を賜った。当初、郡の人々は鹽法があまりに煩雑で奸吏に搾取されることに苦しんでいた。商が着任すると見戸を籍にとり必要な量に応じて自ら売らせ定額を設けなかった。蘇の人々はこれを便利とし歳課は倍増した。鹽鐵を領する宰相はこの功績を上げ、商は潤州刺史・浙西団練観察使に遷った。入朝して刑部侍郎となり京兆尹に転じた。三年、朝廷が上党で用兵した際、太行を越える兵站補給が周辺の六七鎮に及んだため、商を戸部侍郎・判度支・兼供軍使とし軍用は欠けることがなかった。逆賊の稹が平定されると検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使を加えられた。
晩年
- 宣宗即位後、入朝して兵部侍郎となった。まもなく本官のまま同平章事・范陽郡開国公・食邑二千戸となり兼工部尚書を加えられた。数年後、検校工部尚書として鄂嶽観察使に出、検校兵部尚書を加えられた。大中十三年、病により代を求め戸部尚書として召された。その年八月、漢陰駅で卒した、時に年七十一。
- 子は知遠・知微・知宗・僧朗・蕘。
史論
- 史臣曰く、宗閔・嗣復は宗室世家の血筋を承け文学政事の美名を持ち、清華の職を往来し隆顕の地位を出入りした。もし義を上に置き群れて党を結ばず、稷・契の列で太平を議し人主を勲(帝堯)・華(帝舜)の盛世に導けば、時に遭い位を得たことを誰が否と言えようか。しかし披鴻の大猷を捨て虞卿のような輩に馴れ親しみ利を射て、宗閔を養い徳裕に抗し復讐を図った。矛盾が相攻め危うく王室を傾けかけ、身を蛮瘴に沈めたが、その利は何であったろうか。古の廉頗・藺相如は怨みを解き国体を全うしようとしたが、宗閔・嗣復の徒は歓を求め憾みを解くにも大倫を乱した。世道が損なわれることがここまで至るとは。崔(亀従)・魏(謩)の二丞相は嘉言をもって啓奏し正人として恥じるところがない。周墀・李讓夷の史才、鄭粛の礼学、盧商の長者ぶりは、あるいは三事に登りあるいは六卿に践り、道をもって始終を全うした、これは称賛すべきことである。
賛
- 賛に曰く、漢は鉤党(党人の禍)を誅し、魏は疽嚢(膿の袋、害悪)を破った。何進・鄧禹の後、二李(李宗閔・李徳裕)・三楊(楊虞卿・楊嗣復・楊汝士)が現れた。権を偸み怨みに報い、国の存亡を弄んだ。この覆轍を書に記し、あえて巌廊(朝廷)に告ぐ。