舊唐書卷一百七十六 列傳第一百二十六 鄭肅

出自と経歴

  • 鄭粛、滎陽の人。祖父は烈、父は閲、代々儒家であった。粛は苦心して学問に励んだ。元和三年、進士第に登り、さらに書判抜萃により諸使府を佐した。太和初、入朝して尚書郎となり、六年、太常少卿に転じた。粛は古文に長け経学に精しく、左丘明の学や『三礼』の儀注の疑義は博士以下が必ず粛に決を仰いだ。

太子傅としての功績

  • 当時魯王永が寵愛され文宗は名儒を府属に選び、戸部侍郎の庾敬休に王傅を兼ねさせ、戸部郎中の李践方に司馬を兼ねさせ、粛には本官のまま長史を兼ねさせ、これにより名を知られた。翌年、魯王が太子となると粛は給事中を加えられた。九年、刑部侍郎に改められ、まもなく尚書右丞に改められ吏部西銓事を権判した。開成初、陜虢都防禦観察使・兼御史大夫に出た。二年九月、吏部侍郎として召し拝された。帝は粛がかつて太子に侍り言論が典正であったことから太子賓客を兼ねさせ東宮で経を授けさせた。まもなく太子が寵を失い上は不快でこれを廃斥する意があった。粛はその折に召見され邦国の大本、君臣父子の義を深く陳べた。上はこれを聞き態度を改めて嘉した。しかし太子は結局楊妃の讒言により罪を得た。粛は検校礼部尚書・兼河中尹・河中節度・晉絳観察等使とされた。会昌初、武宗は太子永が無実であったことを思い永を陥れた党をすべて誅した。朝議は粛を忠正で大臣の節ありと称え、太常卿として召し拝され累進して戸部・兵部尚書に至った。

宰相拝命と晩年

  • 五年、本官のまま同平章事となり中書・門下の二侍郎を加えられ監修国史・兼尚書右僕射を兼ねた。元来李徳裕と親厚であった。宣宗即位後、徳裕が知政事を罷めると粛も罷相し再び河中節度使となった。病により辞し太子太保を拝し卒した。

子 洎

  • 子の洎は咸通中、累官して尚書郎に至り刺史に出た。洎の子の仁規・仁表は共に俊才があり文翰は高逸であった。

孫 仁規

  • 仁規は累進して拾遺・補闕・尚書郎・湖州刺史・尚書郎知制誥を経て正式に中書舎人を拝し卒した。

孫 仁表

  • 仁表は及第後、杜審権・趙騭に従い華州・河中の掌書記となり入朝して起居郎となった。仁表の文章は特に俊抜と称されたが、才を恃み傲慢であったため人々に軽んじられた。自ら家柄・人物・文章の三つが揃っていると称し、かつて「天の瑞に五色雲あり、人の瑞に鄭仁表あり」と述べたという。劉鄴が若い頃、洎に文を投じたが仁表兄弟はこれを蔑んだ。咸通末、鄴が宰相となると、仁表は結局南荒に貶され死んだ。