出自と経歴
- 崔亀従、字は玄告、清河の人。祖父は璜、父は誠、官は微職であった。亀従は元和十二年に進士第に登り、さらに賢良方正の制科および書判抜萃の二科に登り右拾遺から出仕した。太和二年、太常博士に改められた。
宗廟儀礼の議論
- 亀従は礼学に長け歴代の沿革に精しく問われて通じないことがなかった。当時敬宗の廟室で宗廟を饗する際、祝板に「皇帝孝弟」と称していた。亀従は、「孝」の字の義は経文を考えるに子孫に主として用いられるもので兄弟には施しがたいと論じた。『礼記』の卜虞の文では子孫は「哀」、兄弟は「某」と称すること、虞の「哀」と祭の「孝」はその義が一つであること、祖禰(父祖)には「孝」を称すべきだが伯仲(兄弟)には名を称すのみでよいことを述べた。また東晋の温嶠が宗廟の祝辞を議した際、「孝」の字は子でない者には用いず傍親には直に「敢告」と称すべきとし当時の朝議もこれを是としたことを引き、礼経に兄弟が孝を称する義はなく晋史に傍親を称さない文があることから、宗廟を饗するには「孝弟」の両字を除くべきと論じた。
九宮壇の格式
- また九宮壇の祭祀がもと大祠とされていたことについて、亀従は九宮貴神は経典に記載がなく天宝中に術士の奏請により祠壇が立てられたもので一時のことであり郊祀と同格にされたが、その図法を詳しく見ればいずれも星の名に過ぎず水旱兵荒を司るものであってもその品秩は列宿を超えないとし、今五星がすべて従祀とされ日月ですら中祠であるのに九宮だけが常礼を超えて王事に列せられ百官を誡誓するのは尊卑の儀に大いに背くと論じた。もし祀典にあったことを理由に廃せないというなら中祠に降格すべきと請い、これに従われた。
大臣薨去の廃朝制度
- 亀従はまた大臣が薨じた際、訃報を聞いた日に朝を廃さないことについて上奏した。廃朝で悼みを表すことは君臣の義として重く、哀悼を及ぼすには特に信を示すべきであるが、近頃は奏報の時ではなく数日後に礼が備えられており、常制に従っていても本情に基づいていないと述べた。遠く古書を引くまでもなく国朝の故事として、貞観中に任瓌が卒した際、有司が対仗で奏を後回しにしたことを太宗が礼に背くと責めた例、岑文本の没後その夜のうちに警厳が罷められた例、張公謹が亡くなった際に辰日を避けず哭した例を引き、閔悼の意は時を過ぎるべきでないと論じた。大臣が薨じれば礼として朝を廃すべきであり、たとえ機務が急を要しても便殿に宰臣を召せばよく正朝に臨まなくても事体を損なわないと述べた。そうすれば由衷の信が幽明に感じ、称情の文が典礼を損なわないと結んだ。また、文武三品官の薨卒に廃朝を行うことについて、親重な官を経ていない者や現任が散列の者にまでこの礼を適用するのは適当でないとし、今後は文武三品以上で将相を経た者や密近の職にあり恩礼を加えるべき者以外は廃朝の限りでないよう請い、従われた。
晩年
- 累進して考功郎中・史館修撰に至り、九年、司勲郎中知制誥に転じ、十二月、正式に中書舎人を拝した。開成初、華州刺史に出た。三年三月、入朝して戸部侍郎となり本司事を判じた。四年、権判吏部尚書銓事を兼ねた。大中四年、中書侍郎・同平章事・兼吏部尚書となった。五年七月、『続唐歴』三十巻を撰し進呈した。六年、罷相し検校吏部尚書・汴州刺史・宣武軍節度観察等使となり、方鎮を歴任して卒した。