出自と経歴
- 陳夷行、字は周道、潁川の人。祖父は忠、父は邑。夷行は元和七年に進士第に登り、累く使府に招かれた。宝暦末、侍御史から虞部員外郎に改められ、いずれも東都の分務であった。太和三年、起居郎・史館修撰に入り『憲宗実録』の編修に与った。四年に献上すると司封員外郎に転じ、五年、吏部郎中に遷り、四月、翰林学士に召された。八年、皇太子侍読を兼ね五日に一度長生院に入り太子に経を講じる詔を受けた。上に召対され面と向かって緋衣牙笏を賜り、諫議大夫・知制誥に遷り他の職は元のままであった。九年八月、太常少卿に改められ知制誥・学士侍講は元のままであった。
楊嗣復との対立
- 開成二年四月、本官のまま同平章事となった。三年、楊嗣復・李玨が相次いで輔政に入った。夷行は孤高でその振る舞いを嫌い、上前で政を議するたびに嗣復を批判し往復論争に至った。性が耐えられず足の病を理由に辞位を求める表を上げたが許されず、詔で中使を邸に遣わし労った。七月、王彦威を忠武節度使に、史孝章を邠寧節度使とする人事はいずれも嗣復が起案したものであった。延英対で上が夷行に「先の二鎮の除授は妥当か」と問うと、夷行は「聖心から出たものであればそれでよいでしょう」と答えた。楊嗣復は「聖心から出たなら人情はみな満足するはずだが、事が過当であれば臣下として言わずにいられようか」と述べ、帝は「まことにそうだ、朕には私心はない」と答えた。夷行は「三数年来、奸臣が権を窃んでいます、陛下は太阿の剣を逆さに持って人に柄を授けるようなことがあってはなりません」と述べ、嗣復は「斉桓公は讎敵であった管仲を用いた、太阿の憂いなどあろうか」と反論し、上は不快であった。
楽人の官位をめぐる論争
- 仙韶院の楽官の尉遲璋が王府率に任じられた際、右拾遺の竇洵直が当衙で「伶人には本来の官があり清秩を授けるべきでない」と論じた。鄭覃は「これは小事、なぜ当衙で論じる必要があろうか、王府率は六品の雑官であり清秩と言えるかどうかは洵直の判断ではない、これは近名(名を求める行い)だ」と述べた。嗣復は「洵直は幽(曖昧)だと聞いたことがあるが、今日一人の楽官を論じたのも幽の一種であり驚くには足りない」と述べた。夷行は「諫官が当衙で論じるべきは宰相の得失であって楽官のことではない、しかし既に陳論した以上処置すべきだ、今後楽人には七八年ごとに一官を転任させることとし、それができなければ手力課三数人を加えるべき」と述べた。帝は「別に一官を与えよ」と述べ、光州長史を授け洵直には絹百疋を賜った。夷行はまもなく門下侍郎に転じた。
玄宗朝の政事を巡る議論
- 上が紫宸で政を議し「天宝中の政事は実にあまり良くなかった、当時姚崇・宋璟はいたのか」と問うと、李玨は「姚崇は既に亡く宋璟は罷めていました」と答え、さらに「人君が明哲を保ち終始を全うすることは特に難しいものです、玄宗はかつて『即位以来一人の無実の者も殺していない』と言いましたが、李林甫を任じて人の家族を陥れ滅ぼしたのは惑いではないでしょうか」と述べた。夷行は「陛下は権を人に移すべきではありません」と述べ、嗣復は「夷行の言は安易です、太宗は房玄齢を十六年、魏徵を十五年用いても道を失ったことがありましたか、私は房・魏を長く用いても治まらなかったことはなく邪佞を用いれば一日でも十分な害があると考えます」と述べた。夷行の言はいずれも嗣復の専権を指すものであった。
諫官への評価をめぐる議論
- 文宗が郭薳を坊州刺史に用いた際、右拾遺の宋邧がこれに異論を唱えたがまもなく薳は贓罪に問われた。帝が宰相に「宋邧の論事は嘉すべきだ、邧の授官はいつだったか」と問うと、嗣復は「去年です」と答え、「諫官の論事には陛下がその姓名を記憶し優遇すべきです、もし不当であればそれも知らせるべきです」と述べた。夷行は「諫官の論事はその本職であり、一事を論じるたびに一官を加えれば官はどこから出るのか、情実を免れなくなる」と述べた。帝は「情実は避けがたいものだが、治世の時にも避けられない」と述べた。上は結局夷行の議論が過激すぎると見なし恩礼は次第に薄くなり、まもなく知政事を罷め吏部尚書を守った。
晩年
- 四年九月、検校礼部尚書として華州刺史に出た。五年、武宗即位後、李徳裕が政を秉ると、七月、華州から召されて再び中書侍郎・平章事となった。
- 会昌三年十一月、検校司空・平章事・河中尹・河中晉絳節度使となり、卒して司徒を贈られた。
- 弟の玄錫・夷実はいずれも進士に及第し、玄錫はさらに制策にも登科した。