舊唐書卷一百七十一 列傳第一百二十一 高元裕

出自と経歴

  • 高元裕、字は景圭、渤海の人。祖父は甝。父の集は官が低かった。元裕は進士第に登り、本名は允中であったが太和初、侍御史のとき元裕と改める旨を奏した。累進して左司郎中に至った。李宗閔が宰相となると諫議大夫に用い、まもなく中書舎人に改めた。九年、宗閔が罪を得て南遷した際、元裕は城を出て餞送し李訓の怒りを買い閬州刺史に出された。鄭注が翰林に入った折、元裕はその制辞を起草し注が医薬をもって親しく召されたことを記したため注は怒った。宗閔を見送ったことに乗じて元裕は貶された。訓・注が誅されると再び諫議大夫に召された。

太子賓客・御史中丞としての職務

  • 開成三年、翰林侍講学士を充てた。文宗は荘恪太子を寵愛し正しい人を師友にしたいと望み、元裕は太子賓客を兼ねた。四年、御史中丞に改められ風望は厳整で、御史府は紀綱の地であり官属の選用は実才を得るべきであり不相応な者は出すべきと上言し、監察御史の杜宣猷・柳壊・崔郢、侍御史の魏中庸・高弘簡らは不相応として府県の職に出された。まもなく藍田県の民賀蘭進が里内の五十余人と念仏に集まったのを神策鎮将が謀反として捕らえ大辟に処そうとしたが、元裕はその冤を疑い賀蘭進らを台に送り覆問した上で刑を行うよう上疏し、従われた。

晩年

  • 会昌中、京兆尹となった。大中初、刑部尚書となり、二年、検校吏部尚書・襄州刺史に改められ銀青光禄大夫・渤海郡公・山南東道節度使を加えられた。吏部尚書に入り卒した。元裕の兄は少逸・元恭。
  • 少逸は長慶末に侍御史であったが弟元裕の貶官に連座し賛善大夫に左授され、累進して左司郎中に至った。元裕が中丞のとき少逸は諫議大夫に遷り元裕に代わり侍講学士となった。兄弟が続けて禁密の職にあったことを人々は栄誉とした。会昌中、給事中となり多くの封奏を行った。大中初、検校礼部尚書・華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使となり、入って左散騎常侍・工部尚書となり卒した。
  • 元裕の子の璩は進士第に登り、大中朝で内外の官を経て丞郎に至り度支を判じた。咸通中、中書侍郎・平章事を守った。