出自と初任
- 李逢吉、字は虚舟、隴西の人。貞観年間の学士李玄道の曾孫。祖父は顏、父は帰期。逢吉は進士に及第し、初任として振武節度掌書記を授けられた。朝廷に入り左拾遺・左補闕となり、侍御史に改まり吐蕃冊命副使を務め、工部員外郎となり、さらに南詔への副使も務めた。元和四年、使命から戻ると祠部郎中を拝命し右司に転じた。六年、給事中に遷った。七年、司勲員外郎李巨とともに太子諸王侍読を務めた。九年、中書舎人に改まった。十一年二月、礼部貢挙の事務を権知し騎都尉となり緋を賜った。四月、朝議大夫・門下侍郎・同平章事を加えられ金紫を賜った。貢院の事務は礼部尚書王播に委ねて榜を出させた。
裴度への妨害と元稹排斥
- 逢吉は生来奸計を好み、賢者を妬み善人を傷つける性であった。当時淮西討伐の兵が用いられ、憲宗は兵機を裴度に委ねていたが、逢吉はその成功を恐れ密かに妨げようとしたため、両者は不仲となった。度が親征すると、学士令狐楚が度のために起草した制辞が帝の意にかなわず、楚は逢吉と親しかったことから帝は両者をともに退け、楚の学士職と逢吉の政事を罷め、逢吉は剣南東川節度使・検校兵部尚書に出された。
- 穆宗即位後、襄州刺史・山南東道節度使に移った。逢吉は帝が東宮であった頃の侍読の恩があり、人を遣わして寵臣と密かに結び京師への帰還を求めた。長慶二年三月、兵部尚書に召された。当時裴度も太原から入朝しており、河朔招撫の功により留任され、工部侍郎元稹と相次いで平章事を拝命した。度は太原にあった頃、上表して稹の奸邪を論じたことがあった。同じ宰相の座に並ぶと、逢吉は両者が必ず互いを排除しあうと見て、人を遣わし和王傅于方が客と結託し元稹のために裴度を刺そうとしていると告発させた。于方を捕らえ取り調べたが証拠はなく、しかし稹・度はともに宰相を罷免され、逢吉が度に代わり門下侍郎平章事となった。以後逢吉は恩沢によって不逞の朝臣を結びつけ、讒言を捏造しあらゆる手段で裴度を中傷した。学士李紳・韋処厚らが帝の前で、度は逢吉に排斥されたのであり国に功があるから退けるべきでないと弁じたため、度は僕射として朝廷に留まることができた。当時既に河朔を失い、王智興は徐州を擅拠し李㝏は汴州を拠っていた。国威は振るわず、天下は度が再び国政を握り暴乱を鎮めることを待ち望んでいた。しかし逢吉に罪を着せられ権を奪われたことに四海は目を見張り、朝士でこれを論じる上疏を出した者は十数名に及んだ。時に君主(敬宗)は荒淫で政は小人の手にあり、度はついに外藩に追われた。
李紳・韓愈の排斥と鄭注との結託
- 学士李紳は帝の寵を得ていたが、逢吉はこれを憎み中丞に転出させ、さらに外へ出そうとした。そこで吏部侍郎韓愈を京兆尹・兼御史大夫とし台参を免除させた。紳の性格が偏狭で剛直であることから必ず愈と争うと見込んでのことで、制が出ると紳は果たして牒を送り応酬した。愈も性格が頑固で言葉遣いが不遜となり朝廷で騒動になった。逢吉はそこで愈を兵部侍郎に、紳を江西観察使に貶した。紳が謝恩に参内した日、帝は紳を留め赴任させなかった。
- 翼城の人鄭注は医薬をもって中尉王守澄の寵を得ていた。逢吉は甥の仲言に注へ賄賂を贈らせ守澄との結びつきを求めた。仲言は弁が立ち策謀に長け、守澄は大いに気に入った。以後逢吉には後ろ盾ができ、思うままに事が運ぶようになった。
八関十六子と武昭事件
- 敬宗が幼くして即位すると、守澄はさりげなく「陛下が太子となれたのは逢吉の力です。あの時、杜元穎・李紳は深王の擁立を強く求めていました」と奏した。これにより紳は端州司馬に貶された。逢吉のために吠える朝士は張又新・李続之・張権輿・劉棲楚・李虞・程昔範・姜洽・李仲言の八人で、当時「八関十六子」と呼ばれた。又新ら八人が要職にあり、これに付き従う者がさらに八人おり、逢吉に何かを求める者は必ずまずこの八人に賄賂を贈らねば意のままにならなかった。逢吉はまもなく涼国公に封じられ食邑千戸・右僕射を兼ねた。
- 敬宗(昭愍)が即位すると、側近が裴度の賢を繰り返し述べ度がかつて大功を立てたことを帝は高く評価し、中使を興元に遣わし様子を尋ねさせた。
- 宝暦初、度は続けて上表し入朝を願い出た。逢吉の一党は落ち着かず、皆で謀って度の入朝を阻もうとした。張権輿は「非衣小児」の童謡を作り巷に流した。度の人相が天分に応じているという讖言であった。韋処厚が帝の前でこれが権輿の作為であると解き明かしたため阻止できず、逢吉は衛尉卿劉遵古の従者安再栄に武昭が逢吉を害そうとしていると告発させた。武昭は才力があり、裴度が淮蔡を破った時に重用され度々刺史に推挙されていたが、度が退けられると久しく用いられぬまま京師に寄寓し、困窮して怨みの言葉を漏らしていた。逢吉は法司に武昭の行状を調べさせれば裴度の重用ぶりが明らかになり入朝を阻めると考えた。逢吉は同僚の李程とも不仲であった。太学博士李渉・金吾兵曹茅匯は京師の遊侠仲間で気概を認め合い、二人とも程・逢吉の門に出入りしていた。水部郎中李仍叔は程の一族で、武昭が官に就けず鬱屈していることを知り「程は貴殿に官を与えたいが逢吉がそれを阻んでいる」と告げた。昭はいよいよ憤り、酒の席で京師の人劉審・張少騰に逢吉を刺そうとする言葉を漏らした。審はこれを張権輿に告げ、逢吉の耳に入った。逢吉は茅匯に昭を招かせて対面し厚く結托したため、疑怨の言葉はいったん収まった。逢吉は茅匯を殊に厚遇し、「足下は私を『自求』と字し、私は足下を『利見』と字そう」と書簡を送るなど、両者の交わりは密であった。裴度が入朝を求めるに至り阻む術がなくなると、逢吉は武昭の一件を暴かせその事跡を天下に晒そうとした。安再栄が告発した後、李仲言は茅匯に「武昭が李程と共謀したと言えば生き延びられる、さもなくば死ぬ」と脅した。匯は「冤罪で死ぬのは甘んじて受ける、人を誣告して自分だけ免れることはしない」と答えた。武昭が獄に下されると逢吉の醜い所業がすべて露見した。昭は死し、仲言は象州に、茅匯は巂州に、李渉は康州にそれぞれ流され、李虞は拾遺から河南士曹に落とされた。敬宗は裴度をますます厚遇し漢中から召還して再び政務を執らせた。
晩年
- 逢吉は検校司空・平章事・襄州刺史・山南東道節度使となり、張又新・李続之を参佐に望んだ。太和二年、汴州刺史・宣武軍節度使に改まった。五年八月、朝廷に入り太子太師・東都留守・東畿汝防禦使となり開府儀同三司を加えられた。八年、李訓が権を握った。三月、左僕射・兼守司徒に召し拝された。時に逢吉は既に老い足を病み朝謁に堪えなかったため、司徒として致仕した。九年正月、七十八歳で没した。太尉を追贈され謚を成とした。