舊唐書卷一百六十七 列傳第一百十七 段文昌

出自と経歴

  • 段文昌、字は墨卿、西河の人。高祖の志玄は昭陵に陪葬され図像を凌煙閣に描かれた功臣。祖父の徳皎は給事中を追贈された。父の諤は循州刺史、左僕射を追贈された。文昌は荊州に住み、洒脱で気概があったが、節度使裴冑はその才を知りながら用いなかった。韋皋が蜀にあった頃、上表して校書郎を授けさせた。李吉甫が忠州刺史であった時、文昌は文章をもって自らを推薦した。吉甫が宰相の位に就くと裴垍とともに文昌を抜擢し、登封尉・集賢校理を授けた。まもなく監察御史を拝命し補闕に遷り祠部員外郎に改まった。元和十一年、本官のまま翰林学士を兼ねた。
  • 文昌は武元衡の娘婿であった。元衡と宰相韋貫之は不仲で、憲宗が文昌を学士に召そうとした際、貫之は「文昌は志操が修まっておらず側近に登用すべきではない」と奏した。貫之が宰相を罷免されると、李逢吉が文昌を学士に用い、祠部郎中に転じ緋を賜り引き続き学士を務めた。十四年、知制誥を加えられた。十五年、穆宗即位後、正式に中書舎人となり、まもなく中書侍郎・平章事を拝命した。
  • 長慶元年、上表して辞退を願い出た。朝廷は文昌が若い頃西蜀にいたことから西川節度使・同中書門下平章事に任じた。文昌は元来蜀人の心情に通じており、寛政をもって治め厳粛かつ果断で、蛮夷も畏服した。二年、雲南が侵入すると黔中観察使崔元略が上言し朝廷が憂慮したため、文昌に防備を命じた。文昌は一人の使者を遣わし説得しただけで蛮の侵寇はたちまち退いた。
  • 敬宗即位後、刑部尚書に召され、兵部に転じ左丞の事務を兼ねて判した。
  • 文宗即位後、御史大夫に遷り、まもなく検校尚書右僕射・揚州大都督府長史・同平章事・淮南節度使となった。太和四年、荊南に移鎮した。
  • 文昌は荊州・蜀にそれぞれ先祖の旧宅を持っており、これを贖い仏寺とした。また先祖の墓が荊州にあることから別に居宅を営み祖先の位牌を祀る影堂を設け、四季の祭日や良辰美景のたびに供物を捧げた。祭を終えると音楽と歌舞を続けさせ、あたかも生者に仕えるかのようであったため、士大夫はこれを非難した。
  • 六年、再び剣南西川節度使となった。九年三月、春の衣を賜る中使が到着し宣旨を受け終えたところ、病もなく没した。享年六十三、太尉を追贈された。文集三十巻がある。
  • 文昌は無位無官の頃は志を得なかったが、栄達すると顕職を歴任し将相の任を二十年にわたって出入りした。服飾・玩好・歌童・妓女など心の赴くままに惜しみなく費やし奢侈が度を過ぎたため、世評はこれを非難した。子は成式。
  • 成式、字は柯古。父の蔭により官に入り秘書省校書郎となった。学問に精励し秘閣の書籍をあまねく読みつくした。尚書郎に累進した。咸通初、江州刺史に出た。印綬を解いた後は襄陽に寓居し、悠々自適の生活を送った。家に書物が多く、これを自ら楽しみ、殊に仏教の書に通じた。著した『酉陽雑俎』が世に伝わった。