経歴
- 竇易直、字は宗玄、京兆の人。祖父の元昌は彭州九瀧県令。父の彧は廬州刺史。易直は明経に挙げられ秘書省校書郎となり、再び判で等第に入り藍田尉を授けられた。右司・兵部・吏部の三郎中を歴任した。元和六年、御史中丞に遷った。謝恩の日に緋魚袋を賜った。八年、給事中に改まった。九月、陝虢都防禦観察使に出され紫を賜った。京兆尹となった際、万年尉韓晤の不正蓄財が発覚し、易直は曹官韋正晤に取り調べさせ贓三十万を得た。帝はまだ不十分と考え再調査を命じたところ贓三百万に及んだため、易直は金州刺史に貶され、正晤は昭州に流された。十三年六月、宣州刺史・宣歙池都団練観察等使に遷った。
- 長慶二年七月、汴州の将李絺がその帥李愿を追放した。易直はこれを聞き官物を出して軍に賞を与えようとしたが、「理由のない賞与はかえって禍を招く」と諫められ取りやめた。しかし軍士は既にこれを聞いていた。当時江淮は旱魃で水位が低く転運の銭帛が滞って輸送できずにいたところ、州将王国清がこれを賞与に充てるべきだと指摘し州兵を煽動して謀反を企てた。事前に密告があり国清を捕らえ獄に下したが、その党数千人が大声を上げて獄に押し入り国清を奪還し、さらに大掠奪を企てた。易直は楼に登り将吏に「乱を為す者を誅した者には一人につき十万を賞す」と告げると、衆は喜んで矛先を返し乱党を撃ち全員捕らえた。国清ら三百余人はすべて斬られた。九月、李徳裕に交替し吏部侍郎となった。十一月、戸部に改まり御史大夫を兼ね度支を判した。四年五月、本官のまま同平章事となり判使は元のままとした。門下侍郎に改まり晋陽郡公に封じられた。
- 宝暦元年七月、判度支を罷めた。大和二年十月、宰相を罷免され検校左僕射・平章事・襄州刺史・山南東道節度使となった。五年、朝廷に入り左僕射となり太常卿の事務を判した。十一月、検校司空・鳳翔尹・鳳翔隴節度使となった。六年、病により京師への帰還を求めた。七年四月に没し、司徒を追贈され謚を恭恵とした。
- 易直は出仕して十年余り、常に散官の地位にあり請われても辟召に応じなかった。方鎮の任にあっても公平廉潔で知られた。宰相の地位にあっても親族・党与を用いようとしたことはなく、公の推挙にあたって回避することもなかった。ただし元和年間、吏部尚書鄭余慶が僕射上任の儀制を議し隔品の官と対等の礼をとらないと定めた際、御史中丞であった易直はこれに反論する上奏をしたが、後に自ら左僕射となると隔品の者にも敬礼する礼を行い、当時の評はこれを非難した。