経歴
- 董重質、もとは淮西の牙将で呉少誠の娘婿であった。性格は勇猛で軍機に通じ用兵に優れた。元済が命に逆らうと重質は謀主となり、大軍を率いて朝廷軍に当たり数年にわたり陥落を防いだのは皆重質の策によるものであった。元和十二年(817年)、宰相裴度が淮西の兵を督して郾城に至ると、元済は左右の兵と守城の兵をすべて集めて重質に委ね度と対峙させた。この隙に李愬は蔡州の守りが手薄な隙をついて入城した。元済を捕らえた後、重質の家族が蔡州にあったため、愬はこれを安んじその子に書と礼物を持たせ重質を招かせた。重質は子と会い城が既に陥落し元済が捕らわれ困窮している状況を知ると、慨然として単騎で愬のもとへ帰り、白衣で叩頭した。愬は揖して階を上らせ賓客の礼で食事を共にした。憲宗はこれを殺そうとしたが、愬は死を許して降伏させたのだから赦すべきだと上奏し、自軍での使役を願い出た。これにより重質は春州司戸参軍に貶された。
- 翌年、太子少詹事に転じ武寧軍で使役されることとなり金紫を加えられた。十五年(820年)、召還され左神武軍将軍・知軍事・御史中丞を拝命した。さらに金帛を功臣と同等に賜られた。まもなく鹽州刺史を授けられ、左右神策及び諸道剣南西川行営節度使・検校左散騎常侍に遷った。太和四年(830年)、夏綏銀宥節度使に転じた。五年(831年)、検校工部尚書を加えられた。重質は兵を訓練し法を立て、羌戎はこれを畏敬した。八年八月(834年)に没し尚書右僕射を追贈された。