経歴
- 王沛、許州の人。十八歳にして勇敢果断であった。許州節度使上官涚がその才を認め娘を娶らせ牙門将とした。涚が没すると婿の田偁が涚の子を脅し位を襲おうとし、監軍使がこれに従わないことを恐れて謀を結び伏兵を用いようとした。沛は密かにその謀を知り監軍に密告し、隠れていた党を一網打尽にした。監軍范日用がこれを上聞すると、徳宗は陳許行軍司馬劉昌裔にその軍を統括させ、沛に手詔を賜り涚の子を都に護送させた。到着すると召見され、徳宗は「卿の忠義に鑑みれば恩寵を等級以上に加えるべきだ。しかし昌裔の上奏では監察御史を加えるにとどまっており、朕の意には全く足りない。卿は速やかに戻り昌裔に伝え、改めて上奏させよ」と述べた。沛は駅馬で急ぎ戻った。許州に着く前に開府儀同三司・御史中丞を拝命し従前の本職も兼ねた。
- 呉元済が反乱すると李光顔が討伐を命じられ、沛の気概を見込んで行営兵馬使とし別に精兵を統率させ近郊に駐屯させた。軍が合流すると連続して蔡州の賊を破った。しきりに進軍の詔が下ったが諸将は様子見をし誰も溵河を先に渡ろうとしなかった。沛は五千の兵を率い夜に溵河の合流口を渡り賊の喉元を扼して陣を築いた。以後、河陽・宣武・太原・魏博等の軍が続いて渡河し、挟撃しながら郾城に進撃した。沛は先に陣を築いて賊と対峙し、賊将鄧懐金は面縛して降伏した。蔡州の賊は平定された。沛は李光顔に随行して朝廷に入り、光顔は沛の功を詳しく述べ御史大夫を加えられた。
- 鎮に戻ると光顔は鄆州の賊討伐の詔を受けた。李師道が誅殺されると許州の兵を分けて邠州に戍させる詔が下り、沛は都将として鹽州を救援し吐蕃を撃退した。功により寧州刺史を加えられ陳州に遷った。李絺が反乱すると詔で沛は忠武節度副使を兼ね軍を率いて絺を討伐した。絺平定後、検校右散騎常侍を加えられ兗海沂密節度観察等使に遷った。この地は新たに設置されたばかりで人情は荒々しかったが、沛は法令を明らかにし軍政を整理し、一年で大いに治まった。翌年、検校工部尚書に改まり忠武軍節度・陳許蔡観察等使を拝命した。鎮で没し右僕射を追贈された。子は逢。
沛の子・王逢
- 逢は若くして沈着勇敢で、父に従い征伐に功があり忠武都知兵馬使となった。太和中、宿衛として朝廷に入り諸衛将軍を歴任した。石雄・劉沔に従い天徳で回鶻を破った。性格は果断で法の運用が厳格であった。この時二千人が陣に出なかったため、官の賜与を逢はすべて与えなかった。これを非難する者もあったが逢は「勇士が前に進み白刃を冒すのに、功のない者に賞を与えたら、刃を冒した者たちはどう思うか」と述べた。王宰が劉稹を攻めた際、逢は陳許の兵七千を率い翼城に駐屯し田令昭に代わった。賊平定後、検校左散騎常侍となった。忠武軍節度・陳許観察等使に累進した。