舊唐書卷一百六十一 列傳第一百十一 烏重胤

経歴

  • 烏重胤、潞州の牙将であった。元和中、王承宗が反乱し朝廷軍が討伐に向かった。潞州の帥盧従史は出兵しながらも密かに賊と通じていた。当時神策行営の吐突承璀の軍が従史の軍に近く、承璀は重胤と謀り従史を陣中で縛り上げた。この日、重胤は厳戒態勢を敷き潞州軍で動く者はいなかった。憲宗はこの功を賞し潞府左司馬を授け、懐州刺史に遷り河陽三城節度使を兼ねさせた。折しも淮西・蔡州討伐に際し重胤を前線に配し汝州を割いて河陽に隷属させた。朝廷軍が淮西を討伐すること三年、重胤は李光顔と互いに呼応し大小百余戦を戦い元済誅殺に至った。検校尚書右僕射を加えられ司空に転じた。蔡州の将に李端という者がいたが溵河を渡って重胤に降った。その妻は賊に木に縛られ肉を切り取られて死に瀕したが、なおも夫に「烏僕射によく仕えよ」と叫んだ。それほど人心を得ていた。
  • 元和十三年(818年)、鄭権に代わり横海軍節度使となった。着任すると上言した。「臣が思いますに河朔で朝命に逆らってきた地方の実情はおおよそ明らかです。刺史がその職掌を失いかえって鎮将が兵権を握ってきたのです。もし刺史がそれぞれ職分を保ち鎮兵も別にあれば、節度使が安禄山・史思明のような奸心を抱いても一州に拠って反乱を起こすことなどできますまい。河朔が六十年にわたり朝命に逆らってきたのは、刺史・県令の職権を奪い自ら威福を専らにしたためです。臣が管轄する徳・棣・景の三州では既に公牒を発しそれぞれ刺史の職掌を回復させ、州内の兵はすべて刺史の管理下に置きました。また景州はもと弓高県でしたので改めて県に戻し、帰化県はもと草市でしたので県を廃して従前通り徳州に属させることを請います。」詔はすべてこれに従った。これにより法制が整い名分がそれぞれ正された。
  • 深州に駐屯した際、重胤は朝廷の対処が不適切で賊がまさに勢いを増しており軽々しく進軍すべきでないと考え、数か月にわたり様子を見た。穆宗は反乱鎮圧を急ぎ、結局杜叔良に代えさせ、重胤は検校司徒・興元尹を兼ね山南西道節度使を拝命した。京師に召し戻され、再び本官のまま天平軍節度・鄆曹濮等州観察等使となった。李同捷が滄州に拠り父の位を継ぐことを求めたが朝廷は従わなかった。議論では狡猾な若造が命に逆らうことを恐れ重臣に代えようとした。そこで重胤は兗海に鎮を移され太子太師・平章事を加えられ滄景節度使を兼ねることとなり、従前通り斉州を割いてこれに隷属させ、労せずして平定することを期待された。制が下って十日ほどで重胤は没した。太尉を追贈された。
  • 重胤は軍卒の身から出て長帥となっても真心をもって上に仕えた。下の者と苦楽を共にし、どこでも功を立てながらも自ら誇ることがなかった。賓客・僚属を厚遇し礼を尽くしたため当時の名士は皆これに従うことを願った。没する際、二十余人の軍士が皆股肉を割いて祭りに供えたほどで、古の名将にも劣らなかった。
  • 子の漢弘が跡を継ぎ、起復して左領軍衛将軍を授けられた。漢弘は上表して喪に服する期間を全うすることを願い、文宗はこれを嘉して詔で許した。喪が明けてからようやく官を授けられた。