舊唐書卷一百六十一 列傳第一百十一 李光進

出自と経歴

  • 李光進、もとは河曲部落稽阿跌の一族。父の良臣は雞田州刺史を襲爵し朔方軍に属した。光進の姉は舎利葛旃に嫁ぎ、僕固瑒を殺して河東節度使辛雲京に仕えた。光進兄弟は若くして葛旃を頼り太原に家を構えた。
  • 光進は勇猛果敢で、武芸兵略は葛旃に次ぐほどであった。粛宗が霊武で挙兵すると光進は郭子儀に従い賊を破り両京を回復し度々戦功を挙げた。至徳中、代州刺史を授けられ范陽郡公に封じられ食邑二百戸を得た。上元初、郭子儀が朔方節度使となり大同・横野・清夷、范陽・河北の残賊を討伐する際、光進を都知兵馬使とした。まもなく渭北節度使に遷った。永泰初、武威郡王に進封された。大暦四年(769年)、検校戸部尚書として省事を知り、まもなく検校刑部尚書・太子太保を兼ねた。この年冬十月、母を京城南原に葬った際、将相で祭に参じた幄舎は四十四に及び奢侈を極め、城内の士庶で見物する者が壁のように連なった。
  • 元和四年(809年)、王承宗が反乱した。范希朝が軍を率い易定を救援した際、光進を歩都虞候に任じ木刀溝で戦い光進に功があった。六年(811年)、銀青光禄大夫・検校工部尚書を拝命し単于大都護・振武節度使を兼ねた。詔で光進が日頃から誠節があり大きな功を積んだことを称えられ李姓を賜った。弟の光顔も洺州刺史・本州団練使を授けられ、兄弟が同時に恩沢を受けたことに人々は皆感嘆した。八年(813年)、霊武節度使に遷った。光進はかつて馬燧に従い臨洺を救援し洹水で戦い河中を回復し、いずれも功があった。前後の軍中の職をほぼすべて歴任し、中丞・大夫の職も皆兼ねた。以前易定を救援した軍に光進・光顔ともに従軍していたため軍中では光進を大大夫、光顔を小大夫と呼んだ。十年七月(815年)に没した。
  • 光進兄弟は若くして孝と兄弟仲の良さで軍中に推された。母の喪に服した際は三年間寝室に戻らなかった。光顔が先に妻を娶り、母は家事を光顔の妻に委ねていた。母の死後、光進が娶ると、光顔は自分の妻に管籥(家の鍵)・家籍・財物を光進の妻(兄嫂)に返させようとした。光進はこれを拒み光顔に「新婦は生前の母に仕え家を任されていた、変えるべきではない」と述べた。二人は互いに抱き合って長く泣き、結局元のままとなった。光進は享年六十五で没し、尚書左僕射を追贈された。

光進の弟・李光顔――経歴

  • 光顔は兄光進とともに葛旃が騎射に優れていたため幼くしてこれを師としたが、葛旃は光顔の勇健さだけは自分も及ばないと認めていた。成長すると河東軍で裨将となり李懐光・楊恵琳の討伐に従い、いずれも功があった。後に高崇文に従い蜀を平定し旗を奪い将を斬るなど神業の如き働きをし、次第に名を知られるようになった。憲宗元和以来、代州・洺州二州の刺史・御史大夫を歴任した。
  • 九年(814年)、淮西・蔡州討伐が始まると、九月、陳州刺史に遷り忠武軍都知兵馬使を兼ねた。一月余り後、忠武軍節度使・検校工部尚書に遷った。折しも朝廷が天下の兵を徴発し申州・蔡州を包囲して呉元済を討伐する際、詔で光顔に本軍だけで一面を担わせた。光顔は溵水に軍を進め洄曲で対峙した。翌年五月、元済の軍を時曲で破った。以前、賊軍が朝早く光顔の陣に迫って布陣した際、光顔は出撃できず、自ら柵の左右を壊し騎兵を出して突撃させた。光顔は数騎を率い堅陣を冒して突入し何度も出入りした。賊はすべて光顔を知っており矢が体に集中し蝟のようになった。光顔の子が馬の轡を掴んで深追いを止めようとすると、光顔は刃を挙げてこれを叱り、子はやむなく退いた。これを見た兵士たちは競って奮い立った。賊はついに大潰し、死者は数千人に及んだ。捷報が京師に届くと人々は互いに祝いあった。当時蔡州討伐の軍は大小合わせて十余の鎮に及んだが、裴度が使者から戻ると、光顔が勇にして義を知り決して命を辱めないと奏上した唯一の将であった。まさにその通りとなり、光顔は功を立てた。この年十一月、光顔はさらに懐汝節度使烏重胤とともに元済の軍を小溵河で破りその柵を平定した。
  • 以前、都統韓弘が諸軍に賊城を一斉に攻めるよう命じた際、賊はまっすぐ烏重胤の陣に攻め込んだ。重胤はこれを防いだが数槍を受け、馬を馳せて光顔に救援を求めた。光顔は小溵橋が賊の砦であることから、その油断に乗じ田穎・宋朝隠に襲撃させこれを奪った。城壁を平らげこれにより重胤を救うことができた。韓弘は光顔が命令に違反したとして穎と朝隠を捕らえ処刑しようとした。穎と朝隠は勇敢で有能であり軍中は皆惜しんだ。光顔は弘を恐れて彼らを引き留められなかった。折しも中使景忠信が到着しこの事情を知ると、詔を偽って現地で二人を拘束させ、自ら馬を馳せて朝廷に赴き経緯を詳しく報告した。憲宗は忠信の偽詔の罪を赦し、直ちに穎と朝隠を釈放するよう命じた。弘と光顔はそれぞれ上表して論じ合った。憲宗は弘の使者に「穎らは都統の令に違反した以上処刑されて当然だが、光顔がその賊への奇襲の功を理由に赦しを求めるのも理がある。軍には三令五申というが、この件は不問にして今後の功に期待すべきだ」と述べた。詔で弘を諭したが弘は不快であった。十一年(816年)、光顔は続けて元済の軍を破り賊の淩雲柵を陥落させ、憲宗は大いに喜び捷報を伝えた使者に奴婢・銀錦を賜った。検校尚書左僕射に進んだ。
  • 十二年四月(817年)、光顔は元済の軍三万を郾城で破った。賊将張伯良は蔡州に逃げ、賊の二、三割を殺し馬千匹・器甲三万を得た。器甲には皆雷公符が描かれ「速やかに城北の軍を破れ」と記されていた。まもなく郾城の守将鄧懐金が城を挙げて降伏を願い出た。光顔はこれを許し郾城を回収した。
  • 以前、鄧懐金は官軍が青陵城を包囲し帰路を断った際に恐れ、郾城令董昌齢に相談した。昌齢の母は日頃から子に降伏を勧めており、昌齢はこれにより懐金に光顔への帰順を勧め「城内の人々の父母妻子はすべて蔡州に人質にとられている、屈せず降伏すれば一族はみな殺されてしまう。攻めてきていただければ私が烽火を上げて救援を求めます。救援軍が来ようとする頃、官軍がこれを迎え撃てば必ず勝ち、その時に城を挙げて降伏します」と述べた。光顔はこれに従い、賊は果たして敗走した。こうして昌齢が印を持ち役人を率いて門外に並び、懐金と諸将は素服に戈を逆さに持って門内に並んだ。光顔は降伏を受け入れ羅城に入ったが、城壁は五十余歩にわたり自壊していた。
  • 当時韓弘は汴州の帥で驕り強情であった。常に賊の勢力を口実に朝廷の姑息な対応を求め、光顔が力戦することを憎み密かに妨害を図ったが手立てがなかった。そこで大梁の城で美女を探し出し歌舞・弦楽・双六の技を教え、珠翠金玉の衣装で飾り立て、数百万の費用をかけて使者に光顔へ届けさせ、これで心を奪って軍政を怠らせようとした。使者は先に書を携え光顔の陣に赴き「令公(韓弘)は公の徳を公私ともに愛し、公が野に暴露しているのを憂え、一人の妓女を進めて征役の労をお慰めしたいと存じ、謹んでご命令をお待ちしております」と告げた。光顔は「今日はもう日が暮れた、明朝受け取ろう」と答えた。翌朝、光顔は軍士を集めて大宴を開き三軍が集まると使者に妓女を進めさせた。妓女が到着すると容姿端麗でおよそ人間界のものとは思えぬほどで一座は皆驚いた。光顔は座上で使者に「令公は光顔が家族と離れて久しいのを憐れみ美しい妓女を贈られた、まことに恩義に感じ入る。しかし光顔は国家に深い恩を受け逆賊と天日を共にせぬことを誓っている。今、戦う兵数万は皆妻子に背き白刃を踏んでいるのに、光顔がどうして女色を楽しめよう」と言うと、涙をこぼしむせび泣いた。堂下にいた兵士数万も皆感激し涙を流した。光顔は使者に手厚く絹帛を贈り妓女をそのまま連れ帰らせ、使者に「私に代わって令公によろしくお伝えください。光顔は君に仕え国に報いる心に二心はありません」と告げた。以後、兵たちの士気はますます高まった。
  • 裴度が行営に至り賓客・従者を率いて方城沱口で城壁工事や五溝を視察していた際、賊が急襲し弩を構え刃を突きつけてきて度に危険が迫った。光顔は前面で決戦しこれを退けた。この時光顔はあらかじめ賊の来襲を予期し田布に二百騎を溝の中に伏せさせており、賊の不意を突いて挟撃し、度はようやく難を免れた。布はさらに溝の中の帰路を先に塞いだため、賊の多くは馬を棄てて溝を越えようとし互いに引きずり合い墜落して圧死する者が千余人に及んだ。この日光顔の救援がなければ度は陥落していたところであった。この月、賊は光顔が諸将中最も勇猛と知り全軍を挙げて光顔の軍に対峙した。この隙に李愬は油断に乗じ急ぎ軍を進め蔡州を襲いこれを陥落させ元済を捕らえた。董重質は洄曲の軍を棄て城に入り愬に降った。光顔はこれを知ると馬を躍らせ賊営に入り大声で降伏を呼びかけ、賊軍一万余人は皆甲を脱ぎ武器を投げ出して助命を請うた。賊平定後、検校司空を加えられた。
  • 十三年春(818年)、宦官に命じて光顔を邸で宴させ芻米二十余車を賜った。憲宗はさらに麟徳殿で召見し金帯・錦彩を賜った。朝廷が東方の李師道を討伐すると光顔は義成軍節度使を授けられた。鎮に着くとまもなく行営に赴いた。数十日のうちに二度賊軍を濮陽で破り数千人を殺戮し深く軍を進めた。
  • 十四年(819年)、西蕃(吐蕃)が侵攻すると邠寧節度使に移された。当時鹽州が吐蕃に破壊されており、李文悦を刺史に任じ光顔に鹽州城の修築を主管させることとし、陳許六千の兵を邠寧に随行させることが許された。この年、吐蕃が涇原に侵攻した。田縉が夏州を鎮していた頃から貪欲で党項羌を侵し騒がせていたため、吐蕃を引き入れて侵攻させることとなった。吐蕃軍が涇州を攻めると、辺将郝玼が血戦してようやく退けた。以前、光顔は賊が涇州を攻めると聞き兵を計って救援に赴かせようとしたが、邠州の軍は「五十千(銭)を給されながら戦を知らない者はどんな人物か。通常の衣糧も足りないのに白刃を踏んで前進しろとはどういうことか」と騒然として憤懣が収まらなかった。光顔は日頃から士心を得ており、事情を丁寧に説き大義を語ると涙を流し、三軍もこれに感じ入って涙を流し、喜んで出発し賊を撃退した。
  • 穆宗即位後、特進を加えられ子一人に四品正員官を与えられた。まもなく朝廷に召される詔があり開化里の邸を賜り同中書門下平章事を加えられた。穆宗は光顔の功が諸将随一であるとして朝廷に召し宴賜を厚くした。まもなく平章事を帯びたまま鎮に戻ることとなったが、これは功臣への報いであった。
  • 長慶初、鳳翔節度使に遷り従前通り検校司空・同中書門下平章事を兼ねた。年末、再び許州節度使を授けられた。朝廷は光顔が以前陳許を鎮した際大いに士心を得ていたことから、鎮州・冀州を討伐するにあたりこの任命を行った。鎮に赴く日、宰相百僚は慣例に従い章敬寺で送別し、穆宗は通化門に臨んで見送り錦彩・銀器・良馬・玉帯等を賜った。二年(822年)、王廷湊討伐に際し光顔に深州行営諸軍節度使を兼ねさせた。光顔は命を受けて出陣したが、孤立した軍で賊を討つため兵糧輸送に苦労した。朝廷はさらに滄・景・徳・棣等州も兼管させ、賊に近い郡から迅速に輸送できるようにした。光顔は朝廷の対処が不適切で賊の首領が結束しており容易に平定できず、失敗すれば前功もすべて水泡に帰すと考え、兼鎮を懇願して辞退した。まもなく病を発し帰鎮を願い出た。朝廷は結局賊討伐に功を上げられず廷湊を赦免した。四年(824年)、敬宗即位後、正式に司徒を拝命した。
  • 汴州の李絺がその帥を追放して反乱した際、詔で光顔に陳許の軍を率いて討伐させた。尉氏に陣を敷くとまもなく絺は誅殺された。太原尹・北京留守・河東節度使に遷り開府儀同三司に進み、正衙で司徒兼侍中の冊を受けた。二年九月(826年)に六十六歳で没した。朝を三日廃し太尉を追贈され諡は忠。