舊唐書卷一百六十 列傳第一百十 韋辭

韋辞、字は践之。華麗な文才には乏しかったが端正誠実な官僚で、李翺と特に親しく文学で名を馳せた(?–830年、享年58)。

年表(2件)
  • 元和九年814年藍田令から侍御史を拝命するも事に連座し朗州刺史・江州司馬に左遷される
  • 太和四年830年五十八歳で没す。右散騎常侍を追贈される

経歴

  • 韋辞、字は践之。祖父の召卿は洛陽丞。父の翃は侍御史に至った。辞は若くして両経(明経科の一種)で及第し判にも合格し秘書省校書郎となった。貞元末、東都留守韋夏卿に従事として招かれた。後に幕府に度々仕え、いずれも参謀として職務に適していると評された。元和九年(814年)、藍田令から侍御史を拝命したが、事に連座して朗州刺史に出され、さらに江州司馬に貶された。
  • 長慶初、韋処厚・路随が名望を持って要職にあり、日頃から辞に文学と行いの優れていることを知り、しばしばこれを推薦した。戸部員外に抜擢され刑部郎中に転じ京西北和糴使を兼ねた。まもなく戸部郎中・御史中丞となり塩鉄副使を兼ね、吏部郎中に転じた。文宗即位後、韋処厚が政を執り浮華を退け実質のある者を登用することを旨としたため、辞を李翺とともに中書舎人に任じた。
  • 辞は元来華麗な文才には乏しく文筆は中程度であったが、事を処するに端正誠実で仕官に党派を作らなかった。李翺と特に親しく、二人とも文学で高名を馳せた。疎放で自らの信念を貫き、あまり自らを律することはなかった。処厚は時勢を鑑みて激しく用いられ公論に必ずしも受け入れられなかったが、辞もまた文章を練ることに倦み、しきりに外任を求めた。潭州刺史・御史中丞・湖南観察使に出た。鎮に在ること二年、吏民に治世と称えられた。太和四年(830年)、五十八歳で没した。右散騎常侍を追贈された。

史論

  • 史臣曰く、貞元・太和の間、文学によって士大夫の間で名を馳せたのは柳宗元・劉禹錫の二人だけである。その巧みで華麗な文章と広い学識、辞を連ね事を比べる技は誠に一代の宏才であった。もし帝の功業を詠み王の言葉を彩る役目を与えられていれば、古の賢人と肩を並べ当時の輩を圧倒できたであろう。しかし道を歩むにあたり慎みなく小人(王叔文ら)に近づき、自ら流離を招き前途を潰した。君子が集まっても党を組まず慎み深くあるべきというのは、まさにこのためである。韓愈・李翺の二人(文公)は、道の衰えた時世にあって仁義に汲々と努め、世の規範を保ち人文をもって世を化そうと志したが、その道はついに実現しなかった。楊朱・墨翟を抑え仏老を排したことは、道においてまだ広まらなかったとしても、端正な士の心がけであった。
  • 賛に曰く、天地の経綸は文をおいて他にない。韓愈・李翺は筆を揮い言葉は典籍の要を切った。犠牲の鶏は自ら尾を断ち、害馬は群れを乱す。誤った道を自ら噛みしめたのは、劉禹錫・柳宗元ら諸君であった。