舊唐書卷一百六十 列傳第一百十 柳宗元

経歴

  • 柳宗元、字は子厚、河東の人。後魏の侍中済陰公の系孫。曾伯祖の奭は高祖朝の宰相。父の鎮は太常博士、侍御史で終わった。宗元は若くして聡明で衆に抜きん出て、特に西漢の文と楚辞に精通した。文を起こし構想を練る様子は古人に比肩した。精緻で密度が高く珠玉のように輝き、当時の同輩は皆これを推重した。進士に及第し宏辞科にも応じ、校書郎・藍田尉を授けられた。貞元十九年(803年)、監察御史となった。
  • 順宗即位後、王叔文・韋執誼が権を握ると特に宗元を厚遇した。監察呂温とともに密かに禁中に招かれ事を図った。尚書礼部員外郎に転じた。叔文は宗元を大いに用いようとしたが、その地位に就いてまもなく叔文が失脚し、同輩七人とともに貶された。宗元は邵州刺史とされたが、道中さらに永州司馬に貶された。左遷され蛮地の瘴気の中を経巡り険しく行き詰まった境遇に、詩人の憂愁を抱えた。心情を文に写し出来事を記す際は必ず文章にした。楚辞体の文十数篇を作り、読む者を悲しませた。
  • 元和十年(815年)、慣例により柳州刺史に移された。以前朗州司馬であった劉禹錫が播州刺史となる制書が下ると、宗元は親しい者に「禹錫には年老いた母がいる。今、蛮地の郡、西南の絶域に赴けば往復万里、どうして母を連れて行けようか。もし母子が別々の地に住めば永遠の別れになってしまう。私は禹錫と親友であり、どうしてこれを見過ごせようか」と言い、直ちに上奏文を起草し柳州を禹錫に譲り自ら播州に赴くことを願い出た。折しも裴度もこの件を上奏しており、禹錫は結局連州に改められた。
  • 柳州の風習では男女が銭を担保に人に質入れされ、期限を過ぎれば銭主に没収された。宗元はこの土地の法を改めた。既に没収された者は私財を出して身請けし父母のもとへ帰した。江嶺の間で進士を目指す者は数千里を厭わず皆宗元の教えを師とし、その門をくぐれば必ず名士となった。著述の盛んさは時に鳴り響き、当時「柳州」と呼ばれた。文集四十巻がある。
  • 元和十四年十月五日(819年)、四十七歳で没した。子の周六・周七はわずか三、四歳であった。観察使裴行立がその喪と妻子を京師に護送し、当時の人々はこれを義とした。