舊唐書卷一百六十 列傳第一百十 李翺

李翺、字は習之、涼武昭王の後裔。韓愈と親しく礼制論に通じた文章家・官僚で、性格は剛直、太廟の祭祀制度を巡る議論などで知られた。太和年間に地方官を歴任し、会昌年間、山南東道節度使在任中に没した(諡は文)。

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経歴

  • 李翺、字は習之、涼武昭王の後裔。父の楚金は貝州司法参軍。翺は幼くして儒学に励み、博識で古を好み文章は気概を尊んだ。貞元十四年(798年)進士に及第し校書郎を授けられた。三度昇進し京兆府司録参軍に至った。元和初、国子博士・史館修撰に転じた。
  • 十四年(819年)、太常丞王涇が太廟の朔望上食(毎月一日と十五日の供物)を廃止するよう上疏し、詔で百官に議論させた。議論では『開元礼』では太廟は毎年礿・祠・蒸・嘗・臘の五つの祭祀のみとされていたが、天宝末、玄宗が尚食に毎月朔望の常饌を用意させ宮闈令に太廟へ供させたことが慣例となり、以後朔望には朝を開かず大祀に準じるようになった経緯が問題とされた。翺は上奏した。
  • (太廟上食についての翺の議論の要旨)『国語』には王者は日々祭ると言い、『礼記』には天子は七廟を立て月ごとに祭るとある。『周礼』の四時祭は礿祠蒸嘗である。漢代はこれらを併用したが、これは秦の焚書で経典が失われ後に補われた際、儒者がそれぞれの見解を古聖賢の名に託して主張したため記述が一致しなくなったものである。古は廟に寝殿があっても墓で祭ることはなく、秦漢になって初めて陵園に寝廟を建て上食するようになった慣習を国家は改めずに踏襲している。『貞観礼』『開元礼』にはいずれも宗廟の日祭・月祭の規定がなく、日祭・月祭は既に陵寝で行われているためであり、太廟では年五度の享祀と六度の告文のみである。房玄齢・魏徴ら一代の名臣が経史を極めながら『国語』『礼記』の日祭・月祭の語を知らなかったはずがなく、これは太廟の慣例が異なる理由を裏付ける。太廟の饗は籩豆・牲牢を用いる三代の通礼であり、誠を貴ぶ趣旨である。陵墓の奠に日常の供物を用いるのは秦漢の権宜の制で、味を食する道にすぎない。今、太廟に朔望の上食を行うのは日常の卑近な味を貴ぶことになりはしないか。『礼』にいう「至敬は味を饗せず気臭を貴ぶ」の意にも反する。『左伝』には楚の屈到が菱の実を好み臨終に息子へ「私を祭るには必ず菱を供えよ」と命じたが、実際の祭りでは息子は父の遺命に背き菱を退け羊などの正式な供物を用い、君子はこれを是とした逸話がある。祖先を祀る道理は礼を重んじるべきで、生前の嗜好を供物とすべきではない、つまり味を食すことが本義でないことを示している。太廟に日常の供物を薦めるのはこの菱の逸話と同じ誤りではないか。しかも三代の聖王が行ったことでもない。まして祭器も俎豆を並べず祭官も三公を任命せず、執事は宮闈令と宗正卿のみである。これは「上食」であって「祭」とは呼べない。太廟の時享では有司が代行し、祝文には「孝曾孫皇帝臣某、謹んで太尉臣某を遣わし……」とあり、前もって七日前から太尉が百官に誓戒し、陪享の官は散斎四日・致斎三日を経て初めて祭ることができる。宗廟の礼はみだりに議すべきでないが、六十年余り続いた慣習である以上、聖朝が礼楽を重んじる今こそ詳しく議論すべきである。臣らは『貞観礼』『開元礼』にはいずれも太廟上食の規定がなく、礼をもって情を断じ廃止すべきと考える。陵寝の上食については『国語』『礼記』の日祭・月祭の語を採り秦漢の制を踏襲して孝道を広げるのがよい。これにより経義に基づき旧例も失わず、大礼が明らかになり異論も永く止み、二帝三王の道を継ぎ万代の法となるだろう。礼を汚し古法を越えて旧習に固執し改革を憚るのとは天地ほどの隔たりがある。
  • 礼を知る者はこれを是としたが、結局実行されなかった。
  • 翺は性格が剛直で急ぎがちで議論を憚らなかった。執政はその学識を重んじながらもその激しい批判を嫌ったため、長く昇進が滞った。翺は史官の記事が事実に即していないとし上奏した。「臣は誤って史館の筆を執り記注を職としております。善を勧め悪を懲らし、正言直筆をもって聖朝の功徳を記し忠賢の事業を述べ奸臣の醜行を載せ後世に伝えるのが史官の任です。人の事跡は大善大悪でなければ衆人には知り得ず、旧例では人に尋ね行状や諡議を根拠としています。しかし今の行状の多くは門生・故吏が書くもので、虚しく仁義礼智を加え忠粛恵和を偽って言うだけです。これは書く者の心が実でないだけでなく、恩を受けた立場から虚しく美を飾ろうとしているに過ぎません。しかも文を書く者も游・夏・司馬遷・楊雄の域には遠く、華美に走り実を忘れ、文に溺れて理を棄てています。そのため文をなせば六経の古風を失い、事を記せば司馬遷の実録には及びません。臣は今、行状を作る者にはただ事実を指し示し事功を直接記すよう請います。例えば『魏徴伝』を作るなら、その諫諍の言葉だけを記せば正直の証として十分であり、段秀実は司農印を逆さに使って逆賊の兵を追い象牙の笏で朱泚を打ったことだけを記せば忠烈の証として十分です。もし考功が行状を審査する際、この方式に従わないものは受理しないようにしていただきたい。この方式に従えば考功から太常に下し史館に牒し、その後諡を定めることになります。伏して臣のこの奏を考功に下していただきたく存じます。」帝はこれに従った。まもなく権知職方員外郎となった。十五年六月(820年)、考功員外郎を授けられ史職を兼ねた。
  • 翺は李景倹と親しかった。以前、景倹が諫議大夫を拝命した際、翺を自らの後任に推薦した。この頃、景倹が貶されると、七月、翺も朗州刺史に出された。まもなく景倹が再び諫議大夫となると、翺も礼部郎中として朝廷に入った。翺は自らの文才を恃み知制誥にふさわしいと考えていたが、長らく叶わず鬱々としていた。中書に赴き宰相に謁見した際、李逢吉の過失を面と向かって数え立てたが、逢吉は取り合わなかった。翺は心中穏やかでなく休暇を願い出て、百日が過ぎると有司は慣例により官を停止し、逢吉は廬州刺史を奏授した。太和初、諫議大夫として朝廷に入り、まもなく本官のまま知制誥となった。三年二月(829年)、中書舎人を拝命した。
  • 以前、諫議大夫柏耆が滄州軍前への宣諭使に任じられる際、翺はこの人選に賛成していた。柏耆はまもなく擅に滄州に入った罪に問われ、翺は誤った推薦の罪に連座し少府少監に左遷された。まもなく鄭州刺史に出た。五年(831年)、桂州刺史・御史中丞に出て桂管都防禦使を兼ねた。七年(833年)、潭州刺史・湖南観察使に改まった。八年(834年)、刑部侍郎に召された。九年(835年)、戸部侍郎に転じ、七月、検校戸部尚書・襄州刺史・山南東道節度使を拝命した。会昌中、任地で没し諡は文。