舊唐書卷一百六十 列傳第一百十 韓愈

韓愈、字は退之、昌黎の人。幼くして孤児となり苦学し、古文復興を唱えて「韓文」と称された中唐の文章家・官僚(?–824年、享年57)。淮西討伐に従軍し功を立てる一方、仏骨を宮中に迎えることを『論仏骨表』で諫めて潮州に左遷されるなど直言で知られた。門下に張籍・孟郊・唐衢らを育てた。

年表(4件)

経歴

  • 韓愈、字は退之、昌黎の人。父の仲卿は無名の官吏であった。愈は三歳で孤児となり従兄に養われた。孤児として幼くして苦学し儒学に励み、人の励ましを待たなかった。大暦・貞元の間、文章は古学を尚ぶ風潮があり楊雄・董仲舒の著述を模範としていたが、独孤及・梁肅がとりわけ深遠と称され儒林に推重された。愈はその門下と交わり鋭意研鑽し一代に名を成そうとした。進士に応じ公卿の間に文を投じ、旧宰相鄭余慶が大いにその名声を広め、これにより時に知られるようになった。まもなく進士に及第した。
  • 宰相董晋が大梁に出鎮すると巡官に招かれた。府が解散すると徐州の張建封がまた賓佐として招いた。愈は率直で物怖じせず発言し、行いは堅く正しかったが世務には不器用であった。四門博士に任じられ監察御史に転じた。徳宗晩年、政令が多方から出て宰相が政務を専断できなかった。宮市(宮廷の物資調達)の弊害を諫官が論じても聞き入れられなかった。愈はかつて数千言の上疏で強くこれを論じたが聞き入れられず、怒りを買って連州陽山県令に貶され、江陵府掾曹に量移された。
  • 元和初、国子博士に召され都官員外郎に遷った。当時華州刺史閻済美が公事で華陰県令柳澗を職務停止とし掾曹代理を務めさせていた。数か月後、済美が郡を罷免され公館に移ると、澗は百姓を扇動して道を塞がせ前年の軍需の費用を求めさせた。後任の刺史趙昌がこの澗の罪を調べ上げて上聞し、澗は房州司馬に貶された。愈は使いで華州を通過した際この事情を知り、刺史(趙昌)が党を組んで澗を陥れたと考え上疏して澗を弁護したが、その上奏は留め置かれ下されなかった。詔で監察御史李宗奭が調べると澗の贓罪の証拠が見つかり、澗は再び封渓尉に貶された。愈は妄言を弄したとして国子博士に戻された。愈は自らの才を恃みながらも度々退けられたことから『進学解』を著して自らを喩えた。
  • (『進学解』の要旨)国子先生(愈自身を投影した人物)が門人に「学業は勤勉によって精し、遊興によって荒れる。行いは思慮によって成り、放縦によって崩れる。今は聖賢に恵まれた時代であり、少しの善でも録用され、一芸に秀でれば用いられぬことはない」と説く。すると弟子の一人が「先生の学業は確かに勤勉で、異端を退け仏老を斥け、儒学の欠を補い深奥を明らかにし、文章は上古から諸子百家に通じるほど閎大であるのに、公には信用されず私には友の助けもなく、動けば咎を得て左遷や不遇を繰り返し、家族も困窮している。それでもなぜ人に教えを説くのか」と問う。先生は「大木も細木も適材適所で用いられ室が成るのが匠の技であり、様々な薬材を取り揃えて漏らさず用いるのが良医であり、巧拙を併せ用い器量に応じて任じるのが宰相の道である。孟子や荀子ほどの大儒でさえ世に容れられなかった。私の学は勤めても正統によらず、言葉は多くとも要を得ず、文は奇でも実用に適さず、行いは修めても衆に顕れない。それでいて俸禄を得て禄を食んでいるのは、むしろ幸運というべきだ。閑職に置かれるのはその分に相応しい。財の多寡や官位の高低を論い自分の分をわきまえず人の欠点をあげつらうのは、匠に杙(くい)を柱に使わぬことを詰り、良医に薬効の劣る薬草を進めるよう非難するようなものだ」と答えた。
  • 執政はこの文を読んで愈を憐れみ、その史才を認め比部郎中・史館修撰に改めた。一年余り後、考功郎中知制誥に転じ、中書舎人を拝命した。
  • まもなく愈を快く思わない者が旧事を掘り起こし、愈が以前江陵掾曹に左遷された際、荊南節度使裴均に厚遇され、均の子の鍔は凡庸で卑しい人物であるのに、鍔が省試のため父を訪ねた際に愈が餞別の序文を書きその字(あざな)で呼んだことを咎めた。この批判が朝廷で広まり、これに連座して太子右庶子に改められた。
  • 元和十二年八月(817年)、宰臣裴度が淮西宣慰処置使・彰義軍節度使となり、愈を行軍司馬に招き金紫を賜った。淮西・蔡州平定後、十二月に度に従って朝廷に戻り、功により刑部侍郎を授けられ、詔により『平淮西碑』を撰することとなったが、その文は多く裴度の功績を叙するものであった。当時最初に蔡州に入り呉元済を捕らえた功績は李愬が第一であり、愬はこれを不服とした。愬の妻は宮中に出入りしており碑文の内容が事実に反すると訴え、詔で愈の文は削られた。憲宗は翰林学士段文昌に改めて文を撰させ石に刻ませた。
  • 鳳翔の法門寺には護国真身塔があり、塔内には釈迦の指骨一節が納められ、伝承では三十年に一度開かれるとされ、開けば豊作と人々の安泰がもたらされるとされた。十四年正月(819年)、帝は中使杜英奇に宮人三十人を率いさせ香花を持って臨臯駅に赴かせ仏骨を迎えさせた。光順門から大内に入り禁中に三日留めた後、諸寺に送られることとなった。王公・士庶はこぞって喜捨に走り遅れることを恐れた。財産を破り生業を廃し頭を焼き腕を灼いて供養を求める民もいた。愈は元来仏教を好まず、上疏して諫めた。
  • (論仏骨表の要旨)仏は夷狄の一つの教えに過ぎず、後漢の時に初めて中国に伝わり、上古にはなかった。黄帝・少昊・顓頊・帝嚳・堯・舜・禹はいずれも長寿で天下太平であったが、仏教はまだなかった。殷の湯王・太戊・武丁も長命であり、周の文王・武王・穆王の時も仏法は未だ至っておらず、事仏の結果ではなかった。漢の明帝の時に初めて仏法が伝わったが在位はわずか十八年、その後乱亡が相次ぎ王朝の運命は長続きしなかった。宋・斉・梁・陳・元魏以降、事仏がますます篤くなるほど国運は短くなった。梁の武帝は在位四十八年、三度身を仏に施し宗廟の祭祀にも犠牲を用いず一日一食で菜果のみとしたが、結局侯景に迫られ台城で餓死し国も滅んだ。仏に事えて福を求めてかえって禍を招いた例である。これによれば仏は信ずるに足りないことが明らかである。高祖が隋の禅譲を受けた当初、仏教を廃する議があったが群臣の見識が浅く実行されなかった。臣は常にこれを恨みに思う。皇帝陛下は神聖英武で数百年来並ぶ者がなく、即位当初、僧尼・道士への得度を許さず新たな寺観の建立も禁じられた。臣は高祖の志が陛下の代に実現すると考えていた。今、それがまだ叶わないとしても、なぜ盛んにすることを許すのか。今、群僧に仏骨を鳳翔から迎えさせ楼上から観覧し大内に運び諸寺に順に供養させると聞く。臣は愚かではあるが、陛下が仏に惑わされてこれを崇めているのではなく、豊年で人々が楽しむのに任せて京都の士庶に珍しい見世物を提供しているにすぎないと理解している。しかし愚かな民はこれを見て天子でさえ心から仏を敬うのだから自分も身命を惜しむべきでないと考え、頭を焼き指を燃やし衣を脱ぎ銭を撒いて朝から晩まで真似し合い、生業を棄てて奔走する者が続出している。今すぐ禁じなければ、腕を斬り肉を裂いて供養する者が現れ、風俗を傷つけ四方の笑いものとなる恐れがある。仏はもともと夷狄の人で中国と言語も衣服も異なり、先王の法言を語らず先王の法行を実践せず君臣・父子の情を知らない。たとえその身が今なお生きて朝貢に訪れたとしても、陛下は宣政殿で一度接見し礼賓の宴を一度設け衣一着を賜って国境まで送り出す程度で、民衆を惑わせるべきではないだろう。まして既に死して久しい枯骨、凶穢の残りをどうして宮禁に入れてよいだろうか。孔子は「鬼神を敬してこれを遠ざける」と言った。古の諸侯は弔問の際にも巫祝に桃の枝で不祥を祓わせてから行った。今、由来なく朽ち穢れた物を親しく観覧し、巫祝も先立たせず祓いも行わず、群臣もその非を言わず御史もその過ちを挙げないことを臣は恥じる。乞い願わくはこの骨を水火に投じて根本を永く絶ち、天下の疑いを断ち後代の惑いを絶っていただきたい。天下の人に大聖人の行いが尋常はるかに超えたものであることを知らしめれば、これに勝る盛事はない。もし仏に霊があり禍をなすことができるなら、あらゆる災いはこの臣の身に加えられよ。上天が見ているとも、臣は怨まず悔いない。
  • この上疏を見て憲宗は大いに怒った。一日を置いて上疏を宰臣に示し極刑を加えようとした。裴度・崔群は「韓愈は陛下のお心に逆らったことはまことに罪に問われるべきですが、内に忠実な思いがなければ左遷を恐れずこのような直言はできますまい。伏して少し寛容を賜り、諫言する者を招き入れていただきたい」と奏上した。帝は「愈は私が仏を過度に奉じていると言うが、それはまだ許せる。しかし東漢が仏を奉じて以来帝王が皆早世したなどと言うのはあまりに理不尽ではないか。愈は臣下でありながらこのように狂妄なことを言う、決して赦せない」と述べた。人々は驚き惜しみ、外戚諸貴もこの罰が重すぎると考え事あるごとにこれを訴え、結局潮州刺史に貶された。
  • 愈は潮陽に着くと上表した。
  • (潮州上表の要旨)臣は今年正月十四日に潮州刺史を拝命し、その日のうちに駅伝で赴任の途につきました。嶺と海を経て水陸万里、任地は広府の極東にあり広府から二千里とはいえ往復には常に一月以上かかります。海口を過ぎ悪水を下り波は荒く、颶風や鰐魚の禍は測り知れません。州の南は海が天と連なり毒霧瘴気が日夜発生します。臣は若い頃から病がちで五十歳にしてすでに髪は白く歯も抜け、命は長くないでしょう。加えて罪は重く配された地も極めて遠く悪地であり、憂え恐れ死期が近いと感じます。身寄りもなく朝廷に親族もなく、蛮夷の地で魍魅と隣り合っています。陛下が哀れんでくださらなければ誰が臣のために言葉を尽くしてくれましょうか。臣は生来愚かで世事に疎いですが、ひたすら学問文章を好み一日も怠らず、時の人々に推し許されてきました。当代の文において臣を超える者はないと自負しております。陛下の功徳を論じ述べる文章は『詩経』『書経』と表裏をなすものであり、郊廟に薦める歌詩を作り太山の封禅を記し白玉の牒に刻めば、天に対する宏大な休徳を示し前例のない偉業を称揚することができ、『詩経』『書経』の書に編んでも恥じることなく、天地の間に置いても欠けることがないでしょう。古人が生き返ったとしても臣は多くを譲るつもりはありません。大唐が天命を受けて天下を有して以来、四海の内、東西南北の万里の地はすべて臣下として服してまいりました。天宝以後、政治がやや緩み文治は十分でなく武力による統治も乱れました。逆臣や奸臣は表面上は従いながら内心では背き、父が死ねば子が代わり祖父から孫へと世襲し、あたかも古の諸侯のように自らその地を専有し朝貢もせず六、七十年が過ぎました。四代の聖帝を経て陛下に至り、陛下自ら政務を親裁され、軍を発するところ従わぬ者はありません。まさに楽章を定めて神明に告げ、東の泰山に巡幸して功を皇天に奏し、永遠に功業を伝えるべき時であります。今このときこそ千載一遇の好機というべきですが、臣は罪を負って海島に自ら拘束され、日々死に迫られる思いで、供奉の官吏の末席にも連なりわずかな才芸を捧げて前の過ちを償う機会すら得られません。天を極めるほどの痛みを抱き死んでも目を閉じられません。宸極(帝都)を遠く望めば魂が飛んでいくかのようです。伏して願わくは天地の如き父母たる陛下、臣を哀れみ憐れんでいただきたい。
  • 憲宗は宰臣に「先日韓愈から潮州に届いた表を得た。仏骨のことを諫めた事を思うに、これは大いに私を愛してのことだ、私が知らないわけがない。ただ愈は臣下でありながら主君が仏に事えれば寿命が縮むなどと言うべきではなかった、私はその軽率さを憎んでいるのだ」と述べた。帝は愈を再び用いようと考え、まず言及して宰臣の反応を見た。しかし皇甫鎛は愈の狷介剛直な性格を憎み、再び用いられることを恐れ真っ先に「愈はやはり甚だしく狂妄で軽率です、せいぜい近い一郡に量移する程度が適当でしょう」と答えた。こうして袁州刺史を授けられた。
  • 以前、愈が潮陽に着任し政務を執った際、吏民に苦しみを尋ねると皆「郡の西の湫水に鰐魚がおり、卵から孵ると数丈にもなり民の家畜をほとんど食い尽くし、そのため民は貧しい」と答えた。数日後、愈は湫水に赴き判官秦済に豚一頭・羊一頭を炙らせ湫水に投げ入れさせ、こう祝文を述べさせた。
  • (祭鰐魚文の要旨)徳の薄い前代の君主が楚・越の地を棄てたなら鰐魚がここに棲むのもよいだろう。しかし今の天子は神聖にして四海の外まで撫育しておられる。ましてここは揚州の境、刺史・県令が治める地であり貢賦を出して天地宗廟の祭祀に供する土地である。鰐魚が刺史とこの地を分かち合うことなどあってよいはずがない。刺史は天子の命を受けこの地を守っているのに、鰐魚はふてぶてしく渓や淵に安住せず民の家畜・熊・鹿・獐・豕を食らって肥え太り卵を増やし、刺史と長たる地位を争っている。刺史がいかに非才であっても鰐魚に頭を下げるいわれはない。今潮州の南には大海があり鯨鵬のような巨物から蝦蟹のような小物まで容れないものはなく、鰐魚も朝に発てば夕には着けるだろう。今、鰐魚に三日、遅くとも七日の猶予を約す。もし頑なに移らず民の害となり続けるなら、刺史は腕の立つ勇士を選び強弓毒矢を用いて鰐魚と対決することになろう。
  • 祝文を唱えた夜、湫の中から暴風雷が起こった。数日で湫水はすべて涸れ、旧湫から西へ六十里の地に移った。以後潮州の人々は鰐魚の害を免れた。
  • 袁州の風俗では男女が人に隷属する際、期限を過ぎると出資者の家に没収される慣習があった。愈が着任すると法を設けてこれらの男女を身請けし父母のもとへ帰した。さらにその慣習法を改め人を隷属させることを禁じた。
  • 十五年(820年)、国子祭酒に召され兵部侍郎に転じた。折しも鎮州で田弘正が殺害され王廷湊が擁立されると、愈は鎮州に赴き宣諭するよう命じられた。愈は着任すると軍民を集め逆順の理を諭した。言葉は切実で廷湊も畏敬した。吏部侍郎に改まった。京兆尹に転じ御史大夫を兼ねたが、台参(御史台への挨拶)を行わなかったため御史中丞李紳に弾劾された。愈は服さず、勅により台参は不要と主張した。紳・愈はいずれも性格が偏狭で互いに批判の文書を往来させ収まらず、結局紳は浙西観察使に出され、愈も京兆尹を罷免され兵部侍郎に改められた。紳が着任の挨拶に赴く際涙ながらに事情を述べると、穆宗はこれを憐れみ制を追加して紳を兵部侍郎とし愈は再び吏部侍郎となった。長慶四年十二月(824年)、五十七歳で没した。礼部尚書を追贈され諡は文。
  • 愈は寛大で交際があり、人と交わっては栄枯によって態度を変えなかった。若い頃、洛陽の人孟郊、東郡の人張籍と親しかった。二人がまだ無名の頃、愈は寒暑を厭わず公卿に推薦し、籍はついに科挙に及第し栄達した。後に愈が高位に就いても公務の合間には昔と変わらず彼らと語らい詩文を論じ合った。一方、権門豪士に対しては僕隷のように見なし一顧だにしなかった。後進を大いに励まし食客とした者は十中六、七に及び、朝食にも困窮しながら平然としていた。おおむね名教を興し仁義を広めることを己が使命とした。内外の親族や友人の孤女を嫁がせたことは十人に近い。
  • 常々魏晋以来、文をなす者の多くが対句にとらわれ、経典の趣旨や司馬遷・楊雄の気格が振るわなくなったと考えていた。そのため愈の文は近体(当時流行の駢文)に反することを旨とし、意を述べ言を立てて独自の新しい文体を確立した。後学の士人はこれを師法とした。当時の作者は非常に多かったがこれを超える者はなく、世に「韓文」と称された。しかし時に才を恃み気ままに書き、孔子・孟子の趣旨に反する部分もあった。南方の人が誤って柳宗元を羅池神と崇めた際、愈はその碑文を撰してこれを実として書いてしまった。李賀の父の名が晋という字であったため進士試を受けられないという議論があった際には『諱弁』を著して賀に進士を受けさせるよう論じた。また『毛穎伝』を著し戯れの内容で人情に近くない部分があった。これらは文章として大いに乱れた点である。当時、愈は史筆に優れると評されたが『順宗実録』を撰した際には繁簡が不当で取捨が拙く、当代から批判された。穆宗・文宗はかつて史臣に添削を命じたが、当時愈の娘婿李漢・蔣系が要職にあり、諸公は改訂を憚った。結局韋処厚が別に『順宗実録』三巻を撰した。文集四十巻があり李漢が序を書いた。
  • 子の昶も進士に及第した。

愈の門人・張籍

  • 張籍は貞元中に進士に及第した。性格は奇矯で古体詩に優れ、名句が時に伝えられた。太常寺太祝に補せられ国子助教・秘書郎に転じた。詩で当代に名を成し、公卿の裴度・令狐楚、才名ある白居易・元稹らと交わり、韓愈はとりわけこれを重んじた。国子博士・水部員外郎に累進し水部郎中に転じて没した。世に「張水部」と呼ばれた。

愈の門人・孟郊

  • 孟郊は若くして嵩山に隠れ処士と称した。李翺が東都に分司した際に交わりを持った。留守鄭余慶に推薦され賓佐に招かれた。性格は孤高で人と交わることが少なかったが、韓愈は一度会ってすぐに親密な間柄となり、常にその字(あざな)東野と呼んで文酒の席で唱和した。鄭余慶が興元を鎮すると再び従事に招いたが、招聘の書が届いた頃に没した。余慶は数万銭を給して葬送し、その妻子を長年にわたり援助した。

愈の門人・唐衢

  • 唐衢は進士に応じたが長く及第しなかった。詩歌に優れ感情豊かであった。人の文章に悲しむべきところがあれば読み終えて必ず泣き涙を止められなかった。人と語り別れる際には一声嘆息するのが常で、その声は哀切で聞く者は皆涙した。かつて太原に遊んだ際、軍帥の宴に列席したが、酒が回ると事を語り声を上げて泣き、席の興を削ぎ宴が中止になったことがあり、世に「唐衢善哭」と称された。左拾遺白居易は詩を贈り、賈誼が時事を哭し阮籍が路の分岐を哭したのに比して唐衢の哭泣もまた同じ悲しみによるものだと詠んだ。それほどに名流に称重されたが、ついに一官も得ずに没した。