舊唐書卷一百五十九 列傳第一百〇九 衛次公
衛次公、字は従周、河東の人(?–818年、享年66)。二十歳前に進士に及第し、翰林学士・尚書左丞などを歴任した中唐の官僚。徳宗崩御に際し嫡子(後の憲宗)の擁立を強く主張し衆議をまとめた功で知られる。節操と志向を終始一貫させた人物として推重された。
年表(3件)
- 貞元八年792年左補闕に召され、まもなく翰林学士を兼ねる
- 二十一年正月805年徳宗崩御に際し嫡子(広陵王=憲宗)擁立を主張し衆議をまとめる
- 元和十三年十月818年後任に交代し帰京の途上、道中で病没する(太子少保を追贈、享年66、諡は敬)
経歴
- 衛次公、字は従周、河東の人。器量と気韻が和やかで優雅、二十歳前に進士に及第した。礼部侍郎潘炎は国家の逸材と見て上位に採った。銓選を担当した礼部侍郎盧翰もその才を評価し崇文館校書郎に補し渭南尉に改めた。次公は琴の演奏に優れ、京兆尹李斉運はその子に交際させ次公に琴を教わらせようとしたが、次公は拒み以後生涯琴を弾かなかった。
- 厳震が興元を鎮した際、従事に招かれ監察御史を授けられ殿中侍御史に転じた。貞元八年(792年)、左補闕に召され、まもなく翰林学士を兼ねた。二十一年正月(805年)、徳宗が崩じ、当時皇太子(順宗)の病がひどく、急遽学士鄭絪らが金鑾殿に召された。宦官の一人が「宮中で協議中で誰を立てるかまだ決まっていない」と言うと、皆答えられずにいた。次公が急いで「皇太子は病があっても嫡子の地位にあり内外の心を集めている。やむを得ない事情があるなら広陵王(後の憲宗)を立てるべきだ。もし他の考えがあれば禍難は止まないだろう」と言うと、鄭絪らもこれに同調し衆議はようやく定まった。
- 順宗が諒闇(服喪)にあった折、外では王叔文らが権力を握り党を組み常道が崩れていた。次公は鄭絪とともに内廷にあって多くを正した。
- 司勲員外郎に転じた。しばらくして本官のまま知制誥となり紫金魚袋を賜り学士のまま権知中書舎人となった。まもなく礼部貢挙を知り、浮華な者を退け実直な者を進め、時流に動じなかった。正式に中書舎人を拝命し史館修撰を兼ね、兵部侍郎知制誥に遷り再び翰林学士を兼ねた。鄭絪と親しく、鄭絪が宰相を罷免されると次公も太子賓客に左遷され尚書右丞に改まり戸部事を判じることを兼ね、陝虢等州都防禦観察処置等使を拝命した。銭三百万の免除を願い出て人々は息をつくことができ、その政は朝廷に聞こえた。兵部侍郎に召された。選ばれた人材の中に李勣・徐有功の孫がおり、選から漏れそうになっていたが、次公は召して「あなたの祖先は王府に勲功があった、通常の格式に限るべきではない」と述べ、優遇して任じた。尚書左丞に改まり厚遇を受けた。帝がまさに宰相にしようとし翰林学士王涯に詔の起草を命じていた。折しも淮夷への長年の駐兵があり次公はしばしば上疏して撤兵を求めていた。折しも捷報が届き宰相任命の詔がまさに出ようとしていたところ、憲宗はこれを追って撤回させた。結局淮南節度使・検校工部尚書として出され揚州大都督府長史・御史大夫を兼ねた。
- 元和十三年十月(818年)、後任に交代し朝廷に帰る途中、道中で病没した。太子少保を追贈された。享年六十六、諡は敬。次公は若くして仕官し大官を歴任したが節操と志向は終始一貫し、人々に推重された。
- 子の洙は進士に及第し憲宗の娘臨真公主を娶り、給事中・駙馬都尉・工部侍郎に至った。