経歴
- 鄭絪、字は文明。父の羨は池州刺史。絪は若くして非凡な志を持ち学を好み文章に優れた。大暦中、儒学で高名な張参・蔣乂・楊綰・常袞らはいずれも絪を認め重んじた。絪は進士に及第し宏詞科にも登り秘書省校書郎・鄠県尉を授けられた。張延賞が西川を鎮すると書記に招かれ、朝廷に入り補闕・起居郎を歴任し史職を兼ねた。まもなく翰林に抜擢され司勲員外郎知制誥に転じた。徳宗朝、内職に十三年あり慎み深く謙虚で、帝の待遇も厚かった。
- 貞元末、徳宗が崩じ順宗が即位すると、遺詔が時宜を得て下されなかった。絪は同僚衛次公とともに密かに正論を上申し宦官も逆らえなかった。王伾・王叔文の党が権を専らにした際も絪は道を守り中立を保った。憲宗の監国に際し中書舎人に遷り学士も従前通り兼ねた。まもなく中書侍郎・平章事を拝命し集賢殿大学士を加えられ、門下侍郎・弘文館大学士に転じた。
- 憲宗初、精励して治を求め、絪は杜黄裳とともに国政を担った。黄裳は多くを決裁し、まず宦官の吐突承璀(惠琳)を誅し劉辟を斬るなどの制置を建議した。絪は謙虚で寡黙な性格でほとんど関与しなかったため、太子賓客に降格された。嶺南節度観察等使・広州刺史・検校礼部尚書に出て廉政で称えられた。工部尚書となり太常卿に転じ、さらに同州刺史・長春宮使となり東都留守に改まった。朝廷に入り兵部尚書を歴任、まもなく河中節度使となった。太和二年(828年)、御史大夫・検校左僕射・太子少保として朝廷に入った。
- 絪は文学によって進み、恬淡な性格で顕職を歴任し朝廷の内外を出入りすること四十年余りに及んだ。居所には華美な評判はなかったが道を守り篤実で、古典を愛好し、当時博識で古を好む士人と名理を論じ合う交遊を持ち、時人は皆その老練な徳望を仰いだ。文宗即位後、老齢のため何度も辞職を願い出て太子太傅として致仕した。三年十月(829年)に七十八歳で没した。司空を追贈され諡は宣。子の祗徳。
絪の孫・鄭顥
- 祗徳の子の顥は進士に及第し初め弘文館校書に任じられた。右拾遺・内供奉に遷り詔で銀青光禄大夫を授けられ起居郎に遷った。宣宗の娘万寿公主を娶り駙馬都尉を拝命した。尚書郎・給事中・礼部侍郎を歴任した。二年間貢士を掌り埋もれた才を発掘し今もこれを称えられる。刑部・吏部侍郎に遷った。大中十三年(859年)、検校礼部尚書・河南尹となった。
- 顥は外戚でありながら器量があった。大中年間、その恩遇は並ぶ者がなかった。宣宗が崩じると、その恩遇を追慕して詩序を作った。「去年の寿昌節、麟徳殿の上寿に赴き、帰りに長興里の邸で休んだ。うたた寝をして数十人と別館で涼をとる夢を見た。館は瀟洒で連句を作り合った。私は数聯を作り、同席の者はこれを大いに称賛した。目覚めるとすべては覚えていなかったが、ただ『石門霧露白し、玉殿莓苔青し』という十字だけは覚えており、柱にこれを書き付けた。密かに不吉な言葉だと訝ったが人に語らずにいた。数日と経たず宣宗が体調を崩され朝会が廃され、崩御に至ってこの夢の意味を悟った。恩遇を追慕し石門の句に続けて十韻を作った。『間歳流虹の節、帰軒禁扃を出づ。奔波陶(うつむき)畏景、蕭灑夢殊庭。境象曾て到らず、崇厳昔未だ経ず。日車烏翼を斂め、風動き鶴翎を飄す。異苑人争いて集い、涼台筆停まらず。石門霧露白し、玉殿莓苔青し。若し災いの先兆に匪ずんば、何ぞ当に冥に入るを思うべき。禦鑪虚しく仗馬、華蓋雲亭を負う。白日千古と成り、金滕九齢を閟す。小臣哀しみて筆を絶ち、湖上に青萍に泣く。』」まもなく顥も没した。