舊唐書卷一百五十八 列傳第一百〇八 鄭餘慶
鄭餘慶、字は居業、滎陽の人(?–820年、享年七十五)。二度にわたり宰相(平章事)を務め、儒学・典礼に精通し朝廷の礼楽制度の整備に尽力した。清廉倹約で知られ、四朝にわたり朝廷に出入りすること五十年近くに及んだ名臣。
年表(16件)
- 貞元八年792年翰林学士に選ばれる
- 貞元十三年六月797年工部侍郎に遷り吏部選事を知る
- 貞元十四年798年中書侍郎・平章事(宰相)を拝命
- 元和三年808年検校兵部尚書・東都留守を兼ねる
- 元和六年四月811年正式に兵部尚書を拝命
- 元和九年814年検校右僕射・興元尹、山南西道節度観察使を兼ねる
- 元和十二年817年太子少師に任じられる
- 元和十三年818年尚書左僕射を拝命
- 元和十四年819年太子少師・検校司空を兼ね滎陽郡公に封ぜられる
- 元和十五年十一月820年没す。享年七十五、太保を追贈、諡は貞
- 光啓末機務を固辞し病のため邸に帰り没す。諡は文忠
- 会昌二年842年進士に及第
- 咸通三年862年礼部侍郎として貢挙を掌る
- 中和元年五月881年太原の兵を率いて論安らを関中への援軍に派遣
- 中和二年十一月882年沙陀部が朝廷に帰順し南下するも境を侵さず
- 中和三年883年功を立てた李克用に河東節度使の任を譲り太原を去る
経歴
- 鄭余慶、字は居業、滎陽の人。祖父の長裕は国子司業に至り潁川太守に終わった。長裕の弟少微は中書舎人・刑部侍郎となり、兄弟共に当時名を知られた。父の慈は元徳秀と親しく太子舎人に至った。
- 余慶は若くして学に励み文章に優れた。大暦中に進士に及第した。建中末、山南節度使厳震に従事として招かれ殿中侍御史に至り、父の喪に服して罷免された。貞元初、朝廷に入り左司・兵部員外郎、庫部郎中を歴任。八年(792年)、翰林学士に選ばれた。
- 十三年六月(797年)、工部侍郎に遷り吏部選事を知った。当時玄法寺の僧法湊が寺の衆から訴えられ、万年県尉盧伯達が還俗させる裁定を下したが、後に再び僧となったため伯達はこれを上表して論じた。詔により中丞宇文邈・刑部侍郎張彧・大理卿鄭雲逵ら三司に功徳使判官諸葛述を加えて審理させた。当時の議論では述が下級の胥吏であり憲臣らと同等に省の審理に加わるのはふさわしくないとされた。余慶が上疏してこれを論じ、当時大いに称えられた。
- 十四年(798年)、中書侍郎・平章事を拝命した。余慶は『六経』の深い趣旨に通じ、奏対の際には多く古の道理を用いた。度支使の於頔と親しく、於頔が事を奏するたびに余慶は常に賛同した。まもなく罪により貶された。当時旱魃で人々が飢えており、徳宗は宰臣と禁衛六軍への賑給を議論していたが、実行前に中書の役人からこの話が漏れ、余慶は郴州司馬に貶され六年に及んだ。順宗登極後、尚書左丞に召し戻された。
- 憲宗が位を継いだ月、本官のまま平章事に抜擢された。まもなく夏州の将楊恵琳が命に逆らうと、宰臣らは軍事について論じたが、余慶はまた古の道理を持ち出して上言し、夏州の軍士がすべて県官から供給を受けていることや「介馬万蹄」の言葉を引いた。当時の評は、余慶は古を好み博識だが時勢に適していないというものであった。滑渙という主書が長く中書の簿籍を司り、宦官で枢密を掌る劉光琦と通じていた。宰相が事を議する際、光琦と意見が異なれば渙に意を通じさせ、望みが叶わないことはなかった。宰相の杜佑・鄭絪はいずれもこれを容認していた。世間では佑が渙を「滑八」と私的に呼んだと言われ、四方から書状や賄賂がその門に集まり、弟の泳は官が刺史に至った。余慶が再び中書に入ると同僚と共に議論した際、渙が是非を指図しようとしたため、余慶はその僭越を怒って叱責した。まもなく余慶は宰相を罷免され太子賓客となった。その年八月、渙の贓汚が発覚し賜死された。帝は次第に余慶が渙を叱った事を聞き大いに重んじ、国子祭酒に改め、まもなく河南尹を拝命した。三年(808年)、検校兵部尚書・東都留守を兼ねた。六年四月(811年)、正式に兵部尚書を拝命した。
- 余慶は二度宰相となり、罷免はいずれも大過によるものではなく、特に清廉倹約で時に称えられた。朝廷を出入りしても徳望が高く重んじられ、朝廷の得失について発言すれば基準となった。当時京兆尹元義方・戸部侍郎判度支盧坦は、いずれも勲官として以前三品に至ったため令に基づき門戟を立ててよいとされ、それぞれ自邸に戟を立てることを求めた。義方は加えて上柱国、坦は前任の宣州観察使を理由に戟を求めた。近代の門戟を立てる者は概ね銀青の位階を有するが、義方は勲官のみに基づいており、有司は詳しく調べずにこれを許し、世論はこれを非としたが、台司は弾劾しようとしてまだ実行していなかった。折しも余慶が東都から戻り強くこれを不可とすると、台司は牒を発して礼部に詰め、左司郎中陸則・礼部員外崔備はいずれも俸給を罰され元義方・盧坦の門戟は撤去された。
- 余慶は詔を受けて『恵昭太子哀冊』を撰し、その文辞は非常に巧みであった。医工崔環という者が、淮南の小将から黄州司馬になろうとしていた。勅が南省に届くと余慶はこれを封じ返し、諸道の散将を理由なく正員五品官に授けるのは僥倖の道を開くもので、しかも空席がないことを理由とした。言葉はやや理に過ぎるところもあり、次第に時の権勢に逆らうこととなり太子少傅・判太常卿事に改まった。当時徳宗が山南から宮に還った際、関輔に李懐光・吐蕃の脅威があり都下が驚き憂え、太常に楽を集めさせる際に大鼓を除くよう詔されていた。このとき余慶は初めて大鼓の再使用を奏請した。
- 九年(814年)、検校右僕射・興元尹を拝命し山南西道節度観察使を兼ね、三年後に交代した。
- 十二年(817年)、太子少師に任じられた。まもなく年齢が官を退く頃合いとなり致仕を願い出たが詔で許されなかった。当時度々恩赦により階級を叙され、天子が郊廟に親謁する際も行事官らは皆恩によって三品・五品を授けられ考課を経なくなり、幕府の賓吏も軍功で命服(紫緋等の礼服)を借賜されてから叙任される者が十中八九であった。これにより朝廷で緑衣(下級官の色)を着る者は非常に少なくなり、郎官・諫官にも紫緋を身につける者が現れた。また丞郎中謝洎の郎官の出使では多くが章服を賜り恩寵を示した。こうして寵の印がますます濫りに与えられ、当時は服章を貴重と見なさなくなったため、余慶に格令を詳しく定め制条を立てるよう詔があり奏上された。
- 十三年(818年)、尚書左僕射を拝命した。兵乱以来、左右の宰相位に就く者に不適任な者が多かったが、余慶が名臣としてこの位に就くと人心は美しく満たされた。憲宗は余慶が典章に精通していることを知り、朝廷の礼楽制度が旧来の慣例に外れている点を専ら余慶に委ね参酌して施行させ詳定使とした。余慶はさらに刑部侍郎韓愈・礼部侍郎李程を副使に、左司郎中崔郾・吏部郎中陳珮・刑部員外郎楊嗣復・礼部員外郎庾敬休をいずれも詳定判官に奏請した。朝廷の儀制・吉凶五礼はいずれも損益を加えられた。鳳翔尹・鳳翔隴節度使に改まった。
- 十四年(819年)、太子少師・検校司空を兼ね滎陽郡公に封じられ国子祭酒事を判じることを兼ねた。太学が久しく荒廃し生徒が振るわなかったため、文官の俸給を割いて両京の国子監を修繕するよう奏請した。
- 穆宗登極後、師傅として旧縁により検校司徒に進み厚遇された。元和十五年十一月(820年)に没した。詔にはこう述べられた。「故金紫光禄大夫・検校司徒・太子少師・上柱国・滎陽郡開国公・食邑二千戸の鄭余慶は、初め衣冠礼楽を山東で行い、余力で文章を修めて学問を大成させた。清近の職を出入りすること五十年に及び、二度宰相の位を秉り、しばしば軍務を分掌した。要職はことごとく歴任し、身分高くとも清貧を保ち、卑しい立場でも自ら身を持した。剛直な諫言は台閣に聞こえ、柔和な人柄は家庭を治めた。命を受ける際には孝父(考父)の恭しさがあり、士を待つには公孫(弘)の広さに比した。焚書された逸礼もことごとく口伝でき、古史旧章にも心の巧みを発揮した。朕はまさに教えを乞おうとしていたのに、神がこれを召してしまった。痛惜どうしようもない。今言葉を乞うことはかなわないが、賻礼は厚くすべきで、太保を贈るべきである。」享年七十五、諡は貞。
- 余慶は名節を磨き行いを律し、儒者の道を失わなかった。清廉倹約で終始変わらなかった。四朝にわたり将相の任にあり、朝廷を出入りすること五十年近く、俸禄・賜与はすべて親族に分け与え、家はかなり質素であった。至徳以来、方鎮に任命される際は必ず中使が旌節を携えて邸に赴き宣賜し、皆手厚く金帛を贈って送った。求媚する者はその数が少ないことを恐れ、王人(勅使)が一度来れば数百万銭を得る者もいた。余慶が地方の任を受けるたびに天子は必ずその使者に「余慶の家は貧しいので、みだりに求めさせてはならない」と戒めた。もっぱら儒教を振興しようとし、謁見に来る後進には常に経学を説いた。しかし急を要する者の世話をし、家や身の処し方は極めて質素であった。官の政に及んでは寛大な施策を喜んだ。岐下(鳳翔)を鎮すること一年、軍事にも見るべき成果があった。儒学の宮を創立して以来、学者は自らの行いを学ぶことができたが、往々にして見せかけに近いものもあり、当時の評は完全な徳とまでは認めなかった。帝は余慶の家が元来清貧で葬儀を賄えないことから、有司に一月分の俸料を特別に給し賻贈として哀栄を示すよう命じた。文集・表疏・碑誌・詩賦合わせて五十巻が世に伝わる。
余慶の兄・承慶
- 兄の承慶は官位が振るわなかった。弟の膺甫は主客員外郎中・楚懐鄭三州刺史に至った。次弟の具瞻・羽客・時然はいずれも県令や幕府の佐官に至った。余慶の子は澣。
余慶の子・澣
- 澣、本名は涵、文宗が藩邸にいた時の名と同じであったため澣と改名した。貞元十年(794年)進士に及第。父の左遷に伴い長年任官しなかった。秘書省校書郎から洛陽尉に遷り集賢院修撰を兼ねた。長安尉・集賢校理に改まり、太常寺主簿に転じても職はそのままであった。太常博士に遷り右補闕に改まった。切実で率直な上疏をし、人々はそのことを危ぶんだ。余慶が朝廷に入った際、憲宗は余慶に「卿の令息は朕の直臣である、互いに祝うべきだ」と述べた。起居舎人に遷り考功員外郎に改まった。ある刺史が官吏を駆り立て自身の政績を上言させ石碑を刻んで政を記そうとした事件があったが、澣はその実情を探り廉察使を条項ごとに責め、その巧みな企みが露見し、人々はその明敏さに感服した。当時余慶が僕射であったため、省の郎官職への異動を願い出て国子博士・史館修撰に転じた。母の喪に服し喪が明けると考功郎中を拝命。再び父の喪に服し喪が明けると汜水のほとりに退居した。長慶中、司封郎中・史館修撰に召され中書舎人に累進した。
- 文宗登極後、翰林侍講学士に抜擢された。帝は『経史要録』二十巻の撰述を命じた。書が完成すると帝はその精緻さと博識さを喜び、進呈された書の中から語句を抜き出し自ら質問すると、澣は淀みなく応答し金紫を賜った。太和二年(828年)、礼部侍郎に遷った。二年間貢挙を掌り優秀な人材を選び、時に人を得たと評された。兵部侍郎に転じ吏部に改まり、河南尹に出て、いずれも能吏として評判を得た。左丞として朝廷に入り、まもなく刑部尚書を拝命し左丞事を判じることを兼ねた。山南西道節度観察使に出て検校戸部尚書・興元尹・御史大夫を兼ねた。余慶が興元を鎮した際に儒学の宮を創立し学館を開設していたが、澣が着任するとその美事を再び継いだ。開成四年閏正月(839年)、戸部尚書として召還されることとなったが、詔が下った日に興元で没した。享年六十四。右僕射を追贈され諡は宣。文集・制誥合わせて三十巻が世に伝わる。澣には允謨・茂諶・処誨・従讜の四子がいた。
澣の子・允謨
- 允謨は蔭位で台省に累進し、蜀・彭・濠・晋の四州刺史を歴任し、太子右庶子で終わった。
澣の子・茂諶
- 茂諶は国諱を避けて茂休と改名し、開成二年(837年)進士に及第。太常博士・兵部員外郎・吏部郎中・絳州刺史を四度歴任し秘書監で終わった。
澣の子・処誨
- 処誨、字は延美。兄弟の中でも文章に優れ早くから士友に推された。太和八年(834年)進士に及第。秘府に初任し監察・拾遺・尚書郎・給事中に転じた。工部・刑部侍郎に累進し越州刺史・浙東観察使・検校刑部尚書・汴州刺史・宣武軍節度観察等使に出て汴州で没した。処誨の族父に朗がいる。朗が定州節度使であった頃、処誨は工部侍郎で、ある朝、待漏院で仮眠した際、自分が浙東観察使となり汴州を通過し朗が汴州の帥として引き留めて宴を催し、屋の梁を仰ぎ見ると黄土で飾られており、賓客も見知った顔ばかりという夢を見た。翌年、朗は果たして定州から宣武に鎮を移し韋重を掌書記に招いた。重が赴任するにあたり処誨はこの夢の話を告げた。翌年、処誨は刑部侍郎に転じ、その年の秋、浙東観察使を授けられた。潼関に至った際、朗は従事を遣わし出迎え労い、書を送って先に夢の内容を書き記させた。汴州に着くと清暑亭で宴が開かれ、賓客・佐官はことごとく夢と符合していた。朗が屋の梁を仰いで「これもまた黄土だ」と言うと、一同は感嘆し座はしばし静まった。五年後、朗が没すると処誨が後を継いで汴州節度使となり、詩一篇を賦して庁事に刻み朗を偲ぶ悲しみを尽くした。処誨は元来古を好み著述に励み、著作は非常に多い。校書郎であった時に『明皇雑録』三篇を編纂し世に伝わった。
澣の子・従讜
- 従讜、字は正求、会昌二年(842年)進士に及第。秘書省校書郎に初任し拾遺・補闕・尚書郎・知制誥を歴任した。旧宰相令狐綯・魏扶はいずれも父の貢挙の門生であり、彼のために名声を広めたため、まもなく中書舎人に遷った。咸通三年(862年)、貢挙を掌り礼部侍郎を拝命、刑部に転じ吏部侍郎に改まった。選事を公平に司り、時に不当に見過ごされた者はいなかった。まさに宰相になろうとしていた矢先、権臣の請託を拒んだため検校刑部尚書・太原尹・北都留守・河東節度観察等使に改まった。一年余り後帰還を願い出たが許されず、検校兵部尚書・汴州刺史・宣武軍節度観察等使に改まった。一年で政績が評判となり美声が広まった。要路にある者はその重用を恐れ広州刺史・嶺南節度使に改めた。
- 五管(嶺南地方)が南詔の蛮族に脅かされ、天下で徴兵が行われていたが、折しも龐勛の乱があり辺境の事に構う余裕がなかった。従讜は鎮において兵力が少なく異民族が混乱していたため、土豪を選んで要職を授け防衛にあたらせ、それぞれ効果を上げた。郡邑がしばしば陥落しても交州・広州は平穏であった。まもなく懿宗が崩じると、従讜は久しく番禺(広州)にあり風土に馴染めず帰郷を思う心が詩に表れ、しばしば上章して分司の散官への異動を求めた。僖宗が召還すると刑部尚書に用いられ、まもなく本官のまま同平章事を拝命した。
- 乾符中、盗賊が河南に起こり天下が騒然とした。陰山府沙陀都督李国昌の部族が強勢となり北辺を虎視していた。折しも霊州防禦使段文楚の軍糧の供給が滞り郡兵が食に乏しくなったため、密かに沙陀部を引き入れ城を攻め文楚を殺し振武軍雲・朔等州を占拠した。さらに子の克章・克用に諸部を大いに合わせさせ南下し忻・代を侵させた。前任の帥竇瀚・李侃・李蔚が相次いで重臣として并州を鎮めたがいずれも防げなかった。まもなく康伝圭が三軍に殺害され、軍士はますます驕り功を誇り恩賞を求め、騒動を煽った。さらに河南・河北七道の兵帥が都下に雲集し人々は生活もままならず、沙陀は次々に城邑を陥落させ、朝廷は帥を選ぶのに苦慮した。僖宗は宰臣にこれを鎮めさせようとし詔にはこう記された。「開府儀同三司・門下侍郎・兵部尚書・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・上柱国・滎陽郡開国公・食邑二千戸の鄭従讜は、宰相の地位にありながらしばしば麟鳳の如き功績を上げ、才は変事に応じ動けば必ず要諦を究めてきた。朕は北門が興王の故地であり、そなたがかつて恩恵を施したためなお慕われていることを思う。まさに武を用いるべき時、一時政務の職を辞して、凶悪な賊をことごとく殲滅し我が憂いに応えてほしい。検校司空・同平章事・太原尹・北都留守・河東節度・行営招討等使を兼任すべし。」制が下ると自ら幕僚を選ぶことが許され、長安令王調を副使に、兵部員外郎史館修撰劉崇亀を節度判官に、前司勲員外郎史館修撰趙崇を観察判官に、前進士劉崇魯を推官に、前左拾遺李渥を掌書記に、前長安尉崔沢を支使に奏請した。幕府の盛況は当時随一と評され、朝廷では太原を「小朝廷」と呼び名士の多さを称した。この頃、軍乱の直後で殺戮・略奪が絶えない状況であった。
- 従讜は容貌が温和でありながら気概は強く、機略に沈着で決断力があり、奸謀を見逃さなかった。凶悪な謀や盗賊が発覚するたびにその術中に落ち、群豪は皆恐れをなした。旧府城都虞候の張彦球は、前任の帥が沙陀を百井に追討させるため兵三千を率いさせたが、途中で引き返し兵を放って門を破り旧帥康伝圭を殺害した張本人であった。従讜が着任するとその首謀者を捜索し誅殺した。彦球の本心が善良で謀略に優れることを知り、召して諭すと彦球は疑いなく従い、従讜は兵権をすべて彼に委ねた。
- 広明初、李鈞・李涿が相次いで本道の軍を率いて雁門に出たが沙陀に敗れた。十二月、黄巣が長安を犯し僖宗は都を離れた。詔が伝えられ従讜にこう命じた。「卿は封域の安定を志し軍を統率し、夷夏がともに仰ぎ見て社稷はひとえに卿に頼っている。今月五日、賊の黄巣が長安に侵入し、十六日、朕は梁・漢の地に留まることとなった。上は宗廟に恥じ下は万民に恥じる。藩鎮がこれを聞けば痛憤も切実であろう。特に供奉官劉全及を遣わし慰諭させる。卿は本道の兵士を選び適宜数を定めて北面副招討使諸葛爽に付し、入援させよ。」従讜は詔を受け涙を拭い軍を編成し、牙将論安・後院軍使朱玫に歩騎五千を率いさせ諸葛爽に従って関中に入り難に赴かせた。中和元年五月(881年)のことである。
- 論安の軍が離石に至ったこの月、沙陀の李克用の軍が突然到着し汾水の東に陣を敷き、詔を奉じて難に赴き関中に入ると称した。従讜は食糧を用意して労ったが二晩経っても出発しなかった。克用は城壁に近づき「わが軍はまさに南下しようとしている、相公と直接話したい」と叫んだ。従讜は城壁に登り「僕射(李国昌)父子は咸通以来忠義に励み血戦して国に尽くし、天下の人がその恩恵を受けた。老夫は歴代の朝に仕え将相の位を汚しているが、今群盗が乱れ興り天子が逃れ神州が覆されているのに戈を執って賊を討ち聖恩に応えることができないのは老夫の罪である。しかし多難の時こそ功を立てる好機であり、僕射が功業を成す時である。ただ残念なのは藩鎮を守る命を受け、命を辱めるわけにいかず戎旗に付き従うことができないことだ。もし僕射が終始君親を思う心を持ち、賊を破った後車駕が宮に還れば、私は闕庭で罪を待つことができる、それが私の望みだ。僕射よ自愛されよ」と述べた。克用は拝謝して去った。しかし雑多な兵は統制がとれず近郊で略奪を働いた。従讜は大将王蟾・薛威に軍を出させ追撃させた。翌日、契苾部の救援が到着し沙陀は大敗して退いた。
- 以前、論安が軍を率いて関中に入る際、陰地に至ったところで数百人が擅に帰還したため、従讜は諸部の将校を集め鞠場で彼らを斬り、兵をすべて朱玫に付して難に赴かせた。当時鄭畋も宰相として鳳翔を鎮しており、従讜とは一族の縁があり同年に進士に及第した仲であった。畋も岐下で挙兵し賊の首都を遮った。広明の初め、義を唱え賊の首尾を断ったこの二人は「二鄭」と呼ばれた。国威が再び振るったのはこの二人の儒者たる帥の功による。
- 二年十一月(882年)、代北監軍使陳景思が詔を奉じ沙陀部を赦し賊討伐で罪を贖わせた。これにより沙陀の五部数万人が南下したが境を踏み越えることはなかった。嵐州・石州から河を伝って南下したが、李克用だけが数百騎で城に臨んで別れの挨拶をした。従讜は名馬・器幣を贈り別れを告げた。三年(883年)、克用は賊を破り功を立て河東節度使を授けられ従讜に代わることとなった。榆次に戻る途中、使者を遣わし礼を伝え「私の父は雁門におり、まず参るつもりです。相公はゆっくり行装を整えられ、急いで出立なさらぬように」と従讜に伝えた。従讜は詔を受けるとその日のうちに監軍使周従寓に牒を送り兵馬留後事を知らせるよう求めた。書記劉崇魯は観察留後事を知り「李公と面会してから、帳簿を照合して帰るように」と戒めた。
- 五月十五日、従讜は太原を離れた。当時京城は既に回復していたが天子はまだ還っておらず道中に賊が多かった。絳州に至ると唐彦謙が刺史であり数か月留まった。冬、詔使が行在に召還し再び政務を輔佐させ、司空・司徒を歴任し正式に侍中を拝命した。光啓末、機務を固辞し病を理由に邸に帰り没した。有司は諡を文忠とした。
- 従讜は人を見て適材適所に用い、驕らない性格であったため赴任地では常に評判が良かった。太原にいた際、大将張彦球は強豪で制御が難しく、前後の帥守はその意を疑い衝突を招き軍が安定しなかった。従讜が四年封域を治め、その才用が信頼に足ることを知ると、心を開いて任用し、彼の死力を得た。異民族を防ぎ城を全うできたのは多く彦球の功による。行軍司馬として累進した。従讜が再び政権を執ると金吾将軍に用いられ、多くの郡の刺史を歴任した。絳州にいた際、彦謙の判官陸扆は学問を好み才思があり郡の官舎に寓居していたが、従讜は日々彼と語らい宴を共にし、身分の上下なく接した。朝廷でこれを称賛し、陸扆は後に清顕の位に至った。汴州にいた際、兄の処誨がかつてこの地の鎮帥を務め没した地であることから、一つの政期が終わるまで公署で音楽を奏させなかった。その友悌と礼を知る姿勢はこのようであった。国の名臣として、文忠(従讜)はまさにこれにあたる。