経歴
- 馬摠、字は会元、扶風の人。幼くして父を失い貧しい中で学を好んだ。性格は剛直で軽々しく交わらなかった。貞元中、姚南仲が滑台を鎮すると従事に招かれた。南仲は監軍使と不和で、監軍は南仲の不法を誣告した。南仲罷免後、摠は連座して泉州別駕に貶され、その監軍が朝廷に入り枢密を掌った。福建観察使柳冕はその意を迎えて摠を殺そうとし、従事穆賛に摠を取り調べさせたが、賛は無罪を主張し摠は死を免れた。後に恩王傅に量移された。
- 元和初、虔州刺史に遷った。四年(809年)、御史中丞を兼ね嶺南都護・本管経略使を拝命した。摠は儒学を篤くし政術に優れ、南海に数年在任し清廉で揺るがず異民族もこれに従った。漢が銅柱を立てた地に銅千五百斤で新たに二柱を鋳造し唐の徳を刻んで馬援(伏波将軍)の跡を継いだ。異民族を綏撫した功で金紫を加えられた。
- 八年(813年)、桂州刺史・桂管経略観察使に転じ、刑部侍郎として朝廷に入った。裴度が淮西を宣慰した際、制置副使に奏請された。呉元済誅殺後、度は摠を蔡州に留め彰義軍留後を知らせた。まもなく検校工部尚書・蔡州刺史・御史大夫・淮西節度使を拝命。摠は申・光・蔡等州が長く賊に陥っていたため人々が法を知らないと考え、威刑と勧導で皆を教化させた。彰義軍を淮西と改名するよう上奏し、賊の痕跡をすべて取り除いた。
- 十三年(818年)、許州刺史・忠武軍節度・陳許溵等州観察処置等使に転じ、翌年華州刺史・潼関防禦・鎮国軍等使に改まった。
- 十四年(819年)、検校刑部尚書・鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹濮等州観察等使に遷り検校尚書左僕射を加えられた。戸部尚書として朝廷に入り、長慶三年(823年)に没した。右僕射を追贈された。
- 摠は統治の手腕が優れ軍政に余裕があり、公務の余暇にも書を手放さなかった。著書『奏議集』『年暦』『通暦』『子鈔』等百余巻が世に伝わる。