舊唐書卷一百五十七 列傳第一百〇七 辛秘

経歴

  • 辛秘、隴西の人。若くして学を好み、貞元中『五経』『開元礼』の科にたびたび及第し華原尉を授けられ判で高位に入り長安尉に転任した。高郢が太常卿となるとその礼学を嘉して太常博士に奏授した。祠部・兵部員外郎に遷り博士を兼ねた。山陵及び郊丘の二礼儀使にいずれも判官として署せられ、当時礼に通じた者として推された。
  • 元和初、湖州刺史を拝命した。まもなく李錡の乱に際し諸郡を接収しようとして大将を五郡の監守に命じたが、蘇・常・杭・睦四州の刺史は戦死あるいは拘束された。賊党は秘が儒者であるため軽んじたが、秘は密かに衙門将丘知二に数百の兵を率いさせ、賊将が動くのを待って迎え撃ち大破した。知二は流れ矢に当たり落馬したが再び起き上がって戦い、賊将を斬りその陣を焼き払い、一州は安定した。賊平定後、功により金紫を賜り、以後秘は将帥の器と評された。
  • 太原節度使范希朝が全軍を率いて王承宗を討伐に出た際、秘は召されて河東行軍司馬となり留守の務めを委ねられた。まもなく左司郎中に召され汝州刺史に出た。
  • 九年(814年)、諫議大夫に召され常州刺史に改まり河南尹に選ばれた。職務にあって政を整え称えられる点があった。
  • 十二年(817年)、検校工部尚書を拝命し郗士美に代わって潞州大都督府長史・御史大夫となり昭義軍節度・沢潞磁洺邢等州観察使を兼ねた。この時再び王承宗を討伐しており沢潞は前線に接し損耗が甚だしかった。朝議は戦後の復興を担える者として秘を任命した。四年の間に府庫に銭七十万貫が蓄えられ、糧秣・器械もそれに相応した。
  • 帰任の途上で病にかかり、自ら墓誌を作った。臨終に際してさらに一通の書を作り几の上に緘じて置くよう命じた。家人がこれを開くと、皆質素な葬送を旨とすることが記されていた。長く重任を歴任しながら財産を蓄えなかったことは時に称えられた。元和十五年十二月(820年)、六十四歳で没した。左僕射を追贈され諡は昭。