舊唐書卷一百五十七 列傳第一百〇七 李鄘

李鄘、字は建侯、江夏の人(北海太守李邕の甥の孫、?–820年)。李懐光の反乱に連座しながらも密かに朝廷方に通じて忠を尽くし、鳳翔隴右・淮南等の節度使を歴任した後、宰相(門下侍郎・同平章事)となった。剛直で私に飾らない人柄で知られた。

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経歴

  • 李鄘、字は建侯、江夏の人。北海太守李邕の甥の孫。父の暄は起居舎人に至った。鄘は大暦中に進士に及第し、さらに書判で高位に及第し秘書正字を授けられた。李懐光に招かれ監察御史に累進した。懐光が蒲津に拠って反乱すると、鄘は母・妻とともに賊中に留め置かれた。親族に禍が及ぶことを恐れ、懐光に「兄が洛陽で病んでいるので母を見舞わせたい」と偽って申し出て許され、妻子を連れて行かないよう戒められたが、鄘は皆行かせた。後に懐光がこれを知り責めると、鄘は「私は軍籍にあるため老母に随行できないが、妻を姑に随行させないわけにはいかない」と答え、懐光は罪に問えなかった。当時旧宰相高郢と共に賊の朝廷にあり、密かに賊軍の虚実と攻略の情勢を上奏した。徳宗は手詔を賜りこれを労った。後に事が露見し、懐光は兵を厳しく整え郢と鄘を召して詰問した。鄘は言葉が激しく気迫があり、三軍もその義に感じ入った。懐光は殺すことができず獄に囚えた。懐光の死後、馬燧は獄を訪れ礼を尽くし河東従事として表上した。まもなく進言が用いられず洛陽に帰り母を養った。襄州節度使嗣曹王皋が礼を尽くして招くと従事となり、殿中侍御史を兼ね奏上された。吏部員外郎として朝廷に入った。
  • 徐州の張建封が没すると子の愔が将校に迫られ軍務を統率することになった。詔により危難に動じない者を選び軍中に赴いて諭させることとなり、鄘を徐州宣慰使に任じた。鄘は直接軍中に赴き将士を召して朝旨を伝え禍福を説き、監軍使の枷を外させ復位させた。凶党も手を出せなかった。愔が兵馬留後を称して上表すると、鄘はそれが詔命によるものでないため称号にふさわしくないとし削らせてから受け取った。吏部郎中に遷った。
  • 順宗登極後、御史中丞を拝命、京兆尹・尚書右丞に遷った。元和初、京師に盗賊が多かったため再び京兆尹に選ばれ奸を捕らえ暴を禁じ威望を大いに高めた。まもなく検校礼部尚書・鳳翔尹・鳳翔隴右節度使を拝命。この鎮は代々武将を用い「神策行営」の号を称し、着任の際は必ず軍に赴いて謁見していたが、鄘は着任するとその不適切さを上表し、詔で「神策行営」の名は除かれ単に鳳翔隴右節度となった。まもなく太原に鎮を移し、刑部尚書・御史大夫・諸道塩鉄転運使として朝廷に入った。
  • 五年(810年)冬、揚州大都督府長史・淮南節度使に出た。鄘は前二鎮でいずれも剛厳に部下を統率し急に旧制を変えたため人心が不安になり、まもなく異動となった経緯があった。淮南に数年在任すると検校左僕射を加えられ、政は厳格で理にかない府の蔵は充実した。
  • 朝廷軍が淮夷を征伐すると、鄆州の賊李師道が呼応した。鄘は楚・寿等州の二万余の兵を発し賊境に圧迫を加え、日々の費用が莫大でも有司に請わなかった。時に憲宗は兵を興し国用が不足していたため塩鉄副使程异を駅伝で遣わし江淮諸道に助軍を諭させたが、鄘は境内の富実さから府庫を大いに調べ一年分の蓄え以外をすべて朝廷に貢いだ。諸道は鄘を先頭として競って献じ、以後王師は不足に苦しまなくなった。
  • これより先、吐突承璀が淮南軍を監督し寵貴並ぶ者なきほどであったが、鄘も剛厳で知られ互いに敬い憚り一度も失態がなかった。承璀は帰京すると鄘を宰相に推挙した。十二年(817年)、召され門下侍郎・同平章事を拝命した。鄘は顕職を出入りしたが元来公輔の器を自任せず、年老いて勢いも過ぎ外鎮の生活を安んじていた。祖筵に列し音楽を聞いて涙を流し「宰相の任は私の得意とするところではない」と述べた。着任の行動も遅く、京師に着くとまた病と称して邸に帰り、朝謁もせず政務も執らず、ついに病を理由に辞し戸部尚書に改まった。まもなく検校左僕射・太子賓客・東都分司に改まり、まもなく太子少傅として致仕した。元和十五年八月(820年)に没し太子太保を追贈され諡は肅。
  • 鄘は剛直で私に飾らず、楊憑・穆質・許孟容・王仲舒と親しく、皆気概を自負する者たちであった。鄘は職にあって厳格で峻法で操を立て、赴任地では治まったが剛決で情に薄かった。揚州を鎮すること七年、令行禁止であった。摘発・生殺はすべて軍吏に委ね、参佐は手をこまねき、住民の中には不法に陥る者も多く物議を醸してこれを軽んじる声もあった。子の柱は浙東観察使に至った。
  • 柱の子磎、字は景望。博学多通で文章に優れた。大中十三年(859年)、一挙に進士に及第。帰仁晦が大梁を鎮し穆仁裕が河陽を鎮した際、監察・殿中の官から相次いで従事に奏上された。尚書水部員外郎として朝廷に入り吏部郎中に累進、史館修撰を兼ね翰林学士・中書舎人を拝命した。広明中、洛陽に分司していたところ黄巣・秦宗権(讓)の乱に遭い河橋に逃れた。光啓中、乱を避け淮海にあった際、偽の襄王の詔命があったが磎は従わなかった。
  • 王鐸が滑台を鎮すると杖を策いて訪ねた。鐸は朝廷に表上して推薦した。昭宗は日頃から重んじ再び翰林に召して学士とし戸部侍郎を拝命、礼部尚書に遷った。
  • 景福二年十月(893年)、韋昭度とともに中書門下平章事に任じられた。宣制の日、水部郎中知制誥劉崇魯が任命の麻(詔書)を奪って哭泣し「李磎は奸邪で権幸に付き従い、学士たるに恥じ、宰相にふさわしくない」と奏上した。当時宰臣崔昭緯は昭度・磎と元来仲が悪く、密かに崇魯を使ってこれを阻んだのであった。磎は太子少師に左遷された。磎は十章と『納諫論』三篇を上奏して自ら潔白を訴え、崇魯の非を数え立てた。世論はその才を重んじつつも訴訟に及んだことを卑しんだ。昭宗は日頃からその才を愛し重用を急いでおり、乾寧初、第十一の上表に至ってついに再び宰相に任じた。数か月後、昭度とともに王行瑜らに殺害された。
  • 磎は在任中から書を多く集め手放さず、時人は「李書楼」と呼んだ。著した文章や書伝の疑義への注解は百余巻に及んだが、乱で悉く失われた。王行瑜死後、詔で昭雪され司徒を追贈され諡は文。
  • 子の沇、字は東済。俊才があった。父と同日に殺害され、礼部員外郎を追贈された。