舊唐書卷一百五十七 列傳第一百〇七 郗士美

郗士美、字は和夫、高平金郷の人(?–819年)。李抱真の従事として身を起こし、黔中・昭義等の節度観察使を歴任した。王承宗討伐では兵馬使を斬って軍紀を正し軍功を挙げ、憲宗にも高く評価された。

年表(4件)

経歴

  • 郗士美、字は和夫、高平金郷の人。父の純、字は高卿、李邕・張九齢らに認められ特に詞学で推された。顔真卿・蕭穎士・李華とみな親交があった。進士に及第し書判制策にも三度高位で及第、朝廷に入り拾遺・補闕・員外・郎中・諫議大夫・中書舎人を歴任した。事に処して屈することなく元載に忌まれた。魚朝恩が牙将李琮を両街功徳使に任じると、琮は暴横で銀台門で京兆尹崔昭を辱めた。純は元載を訪ね強く論じ国恥として速やかに上奏するよう求めたが載は従わず、純は病と称して辞職した。東洛に退き十年、自ら「伊川田父」と号した。清名高節は天下に称えられた。徳宗即位後、崔祐甫が宰相となり左庶子・集賢学士に召された。京師に着くと年老いたことを理由に辞職を三度上表し太子詹事致仕となり洛陽に帰った。徳宗は召見し何度も褒め称え金紫を賜り、公卿大夫は都門で詩を贈って見送り士大夫の間で美談となった。文集六十巻が世に伝わる。
  • 士美は若くして学を好み記憶力に優れた。父の友人顔真卿・蕭穎士らはかつて士美と経伝を論じ、応対がよどみなかった。彼らは「われらの死後、二郗(父子)の間で交わりを結ぶことになるだろう」と語り合った。二十歳前に陽翟丞となった。李抱真が潞州を鎮すると従事に招かれ参賛の功績を挙げ、その後二人の帥に代わっても士美が引き続き補佐するよう詔された。
  • 坊州刺史から黔州刺史・御史大夫・持節黔中経略招討観察塩鉄等使に遷った。当時渓州の賊帥向子琪が異民族と結び山間の要害を拠点とし衆七、八千と号していたが、士美は奇策を用いて討伐した。詔で慰労され検校右散騎常侍を加えられ高平郡公に封じられ、京兆尹に再遷。しばしば別殿に召され大政を諮問された。鄂州観察使に出た。
  • 貞元十八年(802年)、伊慎に功があり特に安黄節度使を授けられた。二十年(804年)、慎が入朝すると子の宥が留守の任を主宰し、朝廷はそのままにしていた。折しも宥の母が京師で亡くなったが、宥は軍権を惜しみ喪を発さなかった。士美は従事に別の口実で境内を通過させ、宥は果たしてこれを出迎え、その際訃報を告げ肩籃を予め用意していたのでその日のうちに送り出した。
  • 元和五年(810年)、河南尹を拝命。翌年三月、検校工部尚書・潞州大都督府長史・昭義節度使を兼ねた。前任者の贅沢な浪費をすべて削減し号令を厳粛にした。
  • 朝廷が王承宗を討伐すると、士美は兵馬使王献に精兵一万を率いさせ先鋒とした。献は凶悪で乱に乗じ逗留して進まなかったため、士美は直ちに召し寄せその罪を数えて斬り、「遅れて出る者は斬る」と号令し自ら太鼓を打った。軍が合戦すると賊軍は大敗し三営を陥落させ柏郷を包囲し、しばしば勝報を伝えた。帝は大いに喜び「私は士美が事を為し得ると知っていた」と述べた。この時四方の七、八鎮の兵合わせて十余万が鎮州・冀州を包囲していたが功を上げる者がなく多くが軍法を犯していた。士美の兵は勇敢で軍法を恐れ威声が大いに振るった。承宗は大いに恐れ滅亡が目前と見えたが、折しも班師の詔が下り、両河の間では今もこれを称えられている。
  • 十二年(817年)、病のため工部尚書に召還された。しばらくして忠武節度使・検校刑部尚書を拝命。着任後一月余りで病に伏し、元和十四年九月(819年)に没した。享年六十四。尚書左僕射を追贈され諡は景。
  • 士美は人と交わることに優れ約束を守り豁達で、当時評判が高かった。