舊唐書卷一百五十七 列傳第一百〇七 韋弘景

韋弘景、京兆の人、後周逍遙公韋夐の後裔(?–831年)。翰林学士・吏部侍郎などを歴任し、劉士涇の太僕卿任命に反対するなど剛直な人柄で知られた名卿。

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経歴

  • 韋弘景、京兆の人、後周逍遙公韋夐の後裔。祖父の嗣立は宣州司戸に終わり、父の堯は洋州興道令に終わった。弘景は貞元中に初めて進士に及第し汴州・浙東の従事となった。
  • 元和三年(808年)、左拾遺を拝命し集賢殿学士を兼ね左補闕に転じた。まもなく召されて翰林学士となった。普潤鎮使蘇光栄が涇原節度使になった際、弘景がその任命の詔勅を起草し光栄の功績を書き漏らしたため学士を罷免され司門員外郎に改まり、吏部員外・左司郎中に転じ吏部度支郎中に改まった。張仲方が李吉甫の諡を貶したことに帝が怒り仲方を貶した際、弘景は仲方と親しかったため連座し綿州刺史に出された。宰相李夷簡が淮南に出鎮した際副使に奏請され金紫を賜った。京兆少尹として朝廷に入り給事中に遷った。
  • 劉士涇が駙馬でありながら邪佞な者と交わっていたのに、穆宗が太僕卿に任じようとした。弘景は給事薛存慶とともに詔書を封じ返し士涇に諭した。「太僕正卿は九列の位にある。周の任命では伯冏がその人にあたり、月ごとの名にふさわしく黄河のように重んじられた。漢朝でも石慶の慎み深さ、陳万年の廉潔さがこの職を務め大僚と呼ばれた。今士涇は外戚の常人であり、散秩に列せられているのは父の将帥としての功による恩蔭にすぎず、家は裕福だが名声は士林になく、行いも朝野に聞こえず、突然長卿寺の職を汚すのは官の常道を乱すものである。親族としては人物が優れず、勲功としては寵遇が既に厚く、今顕任を得るのはまことに誤った人事と言える。『伝』に『名と器は人に貸してはならない』とあるが、まさに士涇のことである。臣らの職掌において誤りがあれば臣らの責任であり、劉士涇を太僕卿に新任する勅はまだ実行できない」と。穆宗が宰臣を遣わし諭させても弘景らは先と同様に主張を貫いた。宰臣はやむなく士涇を衛尉少卿に改めた。穆宗はさらに弘景に「士涇の父の昌には辺功があり、士涇も少列の職に十余年おり雲安公主を娶っているのだから恩を加えるべきだ。朕は親族への慰労の意で先の命を実行することにする」と諭したが、穆宗は怒って弘景を安南・邕・容の宣慰使とした。時人はこの言動を大いに評価した。
  • この頃蕭俛が清直な人柄で職にあり、弘景の議論は常にこれを助けた。刑部侍郎に遷り吏部侍郎に転じ、銓衡は公平で権勢を持つ邪な者もその厳格さを恐れ道理に外れたことを求められなかった。選事を掌ること二年、陝虢観察使に改まった。任期を終え尚書左丞に召され、吏部が不当に授官した者六十人を糾弾した。弘景は元来剛直で知られており綱紀の地位に就くと官吏たちも身を正した。吏部員外郎楊虞卿が公事で下役に誹られ獄がまだ決着していなかった際、詔で弘景と憲司が尚書省で共に審理することとなった。虞卿には仲間が多く人々もこれに靡いていた。弘景は元来これを快く思わずすでに休暇を取っていたが、詔に従って召し出されると虞卿は公服で謁見に来た。弘景が「勅命で公を糾問する」と告げると虞卿は動揺して退いた。礼部尚書に転じ東都留守を兼ね東都尚書省事を判じた。宮室を修繕し今もその恩恵が続く。
  • 太和五年五月(831年)に没した。享年六十六。尚書左僕射を追贈された。弘景は官歴を通じ終始正道を旨とし、議論と操守に阿ることがなく、当時の風教にとりわけ頼られた。長慶以来、名卿と目された。