舊唐書卷一百五十六 列傳第一百〇六 于頔

于頔、字は允元、河南の人。周の太師燕文公于謹の後裔(?–818年)。地方官として治績を挙げる一方で横暴も甚だしく、山南東道節度使として襄州に一大勢力を築き朝廷を脅かした。晩年憲宗の威に畏怖し入朝、致仕を願い出た。

年表(3件)

出自と経歴

  • 于頔、字は允元、河南の人。周の太師燕文公于謹の後裔。初め蔭位で千牛に補せられ華陰尉に任じられた。黜陟使劉湾に判官として招かれ、さらに櫟陽主簿として監察御史を摂し入蕃使判官を務めた。司門員外郎・侍御史を経て紫を賜り、西蕃計会使として使命を果たし国境を出て独断で対応する能力があると評された。長安県令・駕部郎中を歴任。
  • 湖州刺史に出た。県内巡行で長城の方山に至ると、その下に南朝が開削した灌漑用の西湖があり、三千頃の田を潤していたが久しく荒廃していた。頔は堤塘を設けて復旧させ、稲・蒲・魚の利益を人々にもたらした。州境は陸地が狭く葬送で棺を覆いきれない者が多く、頔は朽骨を十数か所に葬った。蘇州刺史に転じ、溝渠を浚渫し街路を整備し、今もその恩恵が続く。呉の風俗は鬼神を祀ることが盛んで生業を廃らせるほどだったため、頔は淫祀を疾んで祠を撤去し、呉太伯・伍員ら数廟のみを残した。政績はあったが横暴も甚だしく、湖州時代に恨みのあった旧尉を杖罰で強引に処断した。観察使王緯がこれを上奏したが徳宗は取り上げなかった。後に頔が昇進すると王緯に「一たび悪しき上奏を受け三度官を改められた」と書き送った。大理卿から陝虢観察使に遷ると、志を得たとしてますます威虐をふるい、官吏を日々処罰したため皆恐れおののいた。掾の姚峴はその虐待に耐えかね弟と共に黄河に舟を浮かべ投身自殺した。
  • 貞元十四年(798年)、襄州刺史・山南東道節度観察使となった。地は蔡州に隣接し、呉少誠の反乱の際、頔は兵を率いて唐州に赴き呉房・朗山県を回復し、濯神溝で賊を破った。これにより軍籍を広げ戦士を募り兵器を鋭利にし、漢南の地を専有するほどの勢力を築いた。少しでも不満を持たれた者は軍法で処断した。襄州を大都督府に昇格させることを願い出て鄆・魏に並ぶ府とした。徳宗はこの頃方鎮に姑息であり、頔の実状を聞いても手出しできず認めるほかなかった。頔の上奏はすべて許され、公然と収奪を行い恣意に殺戮し、上を凌ぎ下を威圧することに専念した。鄧州刺史元洪を贓罪で誣告して上奏し、朝廷はやむなく端州へ流し中使に監視させた。隋州棗陽県に至ったところで頔は部将に命じ士卒数百人で洪を襄州まで拉致・拘留させた。中使は京師に逃げ帰り、徳宗は怒ってその中使を数十回鞭打った。頔はさらに洪の処罰が重すぎると上表し、再び中使景忠信を遣わし宣旨で慰諭させ、ついに洪を吉州長史に任じてようやく流刑地に赴かせた。また判官薛正倫にも怒り峡州長史に貶するよう上奏したが、勅命が下ると怒りが解け再び判官に戻すよう上奏し、徳宗はいずれも従った。正倫の死後、まだ埋葬もしないうちに頔は兵でその邸を囲み庶子に嫡女を強引に娶らせた。頔は左僕射・平章事・燕国公にまで昇進した。やがて詔命に従わず擅に兵を総べて南陽に拠り、朝廷は食事も喉を通らぬほど憂慮した。
  • 憲宗即位後、四方に威を張ると頔もやや畏怖した。第四子季友が公主降嫁を求め、憲宗は長女永昌公主を嫁がせた。第二子の方はしばしば父に朝廷帰順を勧め、頔は司空・平章事を拝命した。
  • 元和中、宦官梁守謙が枢密を掌り権勢を招いていた。梁正言なる者が利を貪り、守謙と同族で親しいと自称し、頔の子の敏と交際していた。正言は頔の財貨を取り守謙への賄賂だと言ったが求めた出鎮は久しく実現せず、敏が財貨の返還を正言に迫った。正言は自分の召使を誘い出して四肢を切り溝に棄てた。八年春(813年)、敏の奴の王再栄が銀台門でこれを告発し、その日のうちに頔の孔目官沈璧や家僮十余人が内侍獄で取り調べられた。まもなく台獄に移され、御史中丞薛存誠・刑部侍郎王播・大理卿武少儀を三司使として審理させ、頔邸を捜索して死んだ奴の遺体を発見した。頔は子の賛善大夫正・駙馬都尉季友と共に素服・単騎で闕下に赴き建福門で罪を待ったが、門司は取り次がず、頔は街の南で壁を背に立ち人を遣わして表を進めたが、閣門使は紹介状がないとして受理せず日没にようやく帰った。翌日も建福門で罪を待つと、宰相が説得して邸に帰し恩王傅に貶された。敏は雷州に長流され身柄を拘束されたまま送られた。殿中少監・駙馬都尉季友は二任分の官階を剥奪され、家で謹慎させられた。左賛善大夫正・秘書丞方はいずれも現職を停止された。孔目官沈璧は杖四十で封州に配流。奴の犀牛は劉幹と共に人を殺したため京兆府で処断された。敏は商山に至り賜死された。梁正言・僧鑑虚もいずれも京兆府で処断された。頔はその年十月、太子賓客に改められた。
  • 十年(815年)、朝廷軍が淮西・蔡州を討伐すると諸侯が軍資を献じ、頔は銀七千両・金五百両・玉帯二つを進献したが詔で受け取られず返還された。十三年(818年)、頔は致仕を願い出た。宰臣は太子少保を授ける案を練ったが、御筆で太子賓客に改められた。その年八月に没し太保を追贈され諡は「厲」とされた。子の季友は苑での狩猟に随行した際に穆宗へ訴え、諡は「思」に改められた。右丞張正甫が勅を封じ返し元の諡に戻すよう求めた。
  • 右補闕高鉞は上疏して論じた。
  • 「諡は悪を懲らし善を勧め、濁を退け清を挙げるためのもので、忠臣義士に勧めを知らせ乱臣賊子に恐れを知らせるものです。当時権勢を占めた者でも死後に悪諡を加えるのは、暴戻を懲らし将来を戒めるためです。孔子が『春秋』を編んだのも乱臣賊子を恐れさせるためでした。この規範をもってしても救えないのに、さらに典法を崩してよいでしょうか。臣が聞くところでは、この件は徐泗節度使李愬の奏請によるとのこと。李愬は勲功ある将ですから、その功労に対し爵禄・車服・邸宅を賜るのは構いませんが、朝廷の典法を乱すことになれば何をもって戒めとしましょうか。孔子は『名と器は人に貸してはならない』と言いました。名器は君主が司るもので、他人に貸せば政をも与えることになり、政が失われれば国家もそれに従います。頔はかつて襄・漢を鎮し無実の者を殺し凶暴を恣にしました。軍を襄・鄧に移して朝廷を脅し、逐われた臣を擅に留め天使を遮りました。先帝の即位当初、反側する者を安んじ四方を鎮めるため、幸いにも誅罰を免れ天寿を全うしましたが、まことに『繆厲』と諡して凶邪を戒めるべきであり、どうして美名を加えて奸悪を利する必要がありましょうか。このままでは于頔は生前は奸臣、死後は美諡を得ることとなり、天下の有識の士は聖朝に人なしと本末転倒を嘆くことを恐れます。伏して前の詔を速やかに追い戻し、太常の定めた『厲』の諡に従うことを願い、朝典と国章に濫りがないようにしていただきたい。」
  • 太常博士王彦威もまた上疏した。
  • 「古の聖王が諡法を定めたのは善悪を明らかにし勧誡を垂れるためです。一字の褒賞は紱冕を超え、一言の貶は朝市での恥辱を超えます。これは国家の典礼であり陛下の勧懲の大権です。頔はかつて節旄を擁し暴虐を極め、人神ともに憤り法令の許すところではありませんでした。全軍を擅に興し正楽を僭用し、中使を侵辱し囚人の処断を擅に止め、無実の者を殺戮し際限なく誅求したため、臣はこれを『厲』と諡定めました。今陛下が忍びずと『思』に改められたのは聖慈から出たものですが、実は聖政を害します。陛下が即位されて以来、大中を建て善を聞いては驚くように喜び、諫言に従って倦むことがありませんでした。まして統治の基礎を立てる初め、法を執り名を慎むべき時にあたり、一度恩光を垂れれば僥倖の道が大きく開かれます。頔のような不法があってなお陛下が懲らしめられぬなら、今後頔のような不逞の輩が増え、死後に頔の先例を援用する者が出れば陛下はどう対処されますか。これは前に恩を曲げ後に弊害を生むものです。李吉甫に諡を賜った例を挙げるとしても、吉甫が宰相のとき上を犯し人を殺す罪がありましたか。頔と並べるのは筋違いです。頔がかつて財を献じ国を助け過ちを改め帰順し、二度使者として遠方に赴いた功をもって贖うべきというなら、物を傷つけ人を害し下から搾り上に媚び、賄賂を受けて幸を求める風潮を助長してはなりません。両河に駐兵して既に七十年近く、王師が転戦し傷はまだ癒えていません。張茂昭が易定を挙げて帰順し、程権が滄景を挙げて帰朝した際は特別な恩礼で後に続く者を勧めました。しかし頔は文吏の職にありながら腹心の地に居座り、強情に命に逆らい、やむなく入朝したにすぎず、茂昭と同列に扱えましょうか。財を献じ遠方の使いを勤めた功があっても、その悪行を覆い隠すことはできません。伏して願わくは陛下が恩は義によって断じ、恵みは礼によって成し、褒貶の道を存し僥倖の路を絶たれれば、天下の幸いこれに過ぎません。」
  • この上疏は取り上げられず、結局諡は「思」のままとなった。
  • 長慶中、外戚勲家の縁故で子の方が用いられ、和王傅に至り家は富裕であった。方は遊侠と交わり出世を急いだ。元稹が宰相となり河朔の群盗平定策を求めた際、方は元稹に策を献じて取り入ったが、李逢吉の党が裴度を陥れようと元稹が刺客を送り裴度を殺そうとしていると告発させた。事件は法司に下されたが取り調べで根拠は見つからず、それでも方は誅殺された。