舊唐書卷一百五十六 列傳第一百〇六 韓弘

韓弘、潁川の人。舅の劉玄佐に仕え、その死後汴州の軍から留後に推された(?–没年CE不詳)。宣武軍節度使として二十余年権勢を振るい、淮西討伐では統帥の功により司徒・侍中を加えられたが、実際の戦闘には消極的だったとされる。晩年兵権を返上して入朝し、河中節度を歴任して享年五十八で没した。

年表(3件)

出自と経歴

  • 韓弘、潁川の人。祖父・父は無名で代々滑州匡城に住んだ。幼くして父を失い母方の一族に身を寄せた。劉玄佐はその舅にあたる。玄佐に仕え州の掾となり、たびたび試大理評事に推挙された。玄佐の死後、子の士寧が追放されると、弘は汴州を出て宋州南城の将となった。劉全諒がその頃都知兵馬使であった。
  • 貞元十五年(799年)、全諒が没すると、汴州の軍は玄佐の恩を懐かしみ弘の温厚さを見込んで留後に推し、監軍使もこれを表上した。朝廷も玄佐の縁で認め、弘は試大理評事から検校工部尚書・汴州刺史・御史大夫・宣武軍節度副大使知節度事・宋亳汴潁観察使等に任じられた。
  • この頃呉少誠が汴州に人を遣わし密かに劉全諒と結んで曲環の死に乗じて陳許を襲おうとしていた。折しも全諒が没しその使者が旅舎にいたため、弘は節鉞を得た喜びから使者を斬って上聞し、直ちに三千の軍を出して禁軍と共に少誠討伐を助けた。汴州は劉士寧以来軍がますます驕り、陸長源が殺害されて以来主帥を軽んじる風があり、乱の首魁の党は数十百人に及んだ。弘は着任数か月でその全員を把握した。部将劉鍔は凶悪な者たちの頭目であった。弘は威望を高めようと、ある日短兵を衙門に引き入れ鍔とその党三百人を召して罪を数え立て、その場で斬り殉じさせ血が道に流れた。弘は賓客・僚属を前に平然と談笑した。以後、弘が入朝するまで二十余年、軍衆十万人の中に乱を頼む者はなくなった。検校左右僕射・司空に累進した。
  • 憲宗即位後、同平章事を加えられた。当時王鍔も検校司空・平章事であり、弘は宰臣武元衡に手紙を送り王鍔の下に位置することを恥辱とした。憲宗はちょうど形勢を用いて淮西に臨もうとしており、弘に司徒・平章事を授け鍔の上位に置いた。厳綬を招討使に用いて賊に敗れると、弘の鎮する汴州は両河の賊の要衝にあたるため、朝廷はその異心を恐れ兵権を授けようとしたが、実際の指揮は李光顔・烏重胤に委ねた。弘は淮西諸軍行営都統を授けられたが、兵部郎中知制誥李程が官告を宣賜する形をとりつつ、弘自身は治所を離れず、子の公武に三千の兵を率いさせ李光顔軍に隷属させただけであった。弘は統帥の地位にありながら諸軍の戦功を望まず密かに逗留・妨害を図り、勝報を聞くたびに数日不機嫌になるほど国を危うくして功を求めた。呉元済が誅殺されると統帥の功により検校司徒・侍中を加えられ許国公に封じられ行営都統を罷免された。
  • 十四年(819年)、李師道が誅殺され河南二州が回復されると弘は大いに恐れた。その年七月、汴州の牙校千余人を悉く率いて入朝した。便殿で拝謁の際、足の病のため中使に支えさせた。特別な饗宴と賞賜を受け徽号大礼に列した。絹三十五万匹・馬三万匹・銀器二百七十件を進献した。三度上章して兵権を固辞し京師に留まり朝請に奉ずることを願った。詔にはこう述べられた。
  • 「大忠を納め嘉績を樹てるのは臣が極節を明らかにする所以であり、殊寵を賜り高秩を進めるのは国家が元臣を待遇する所以である。まして国政が広く行われ王言が集まる今、百官が範とし四方が仰ぐ地位を久しく空けておくわけにはいかない。宣武軍節度副大使知節度事・汴宋亳潁等州観察処置等使・開府儀同三司・守司徒・兼侍中・使持節汴州諸軍事・汴州刺史・上柱国・許国公・食邑三千戸の韓弘は、天賦の才を積んで器を成し、内には深閎の量を蘊え外には厳重の姿を示す。国を匡し時を済う心を持ちながら誠を推して誇らず、凶を平らげ暴を禁じる略を持ちながら義を仗んでますます明らかである。浚郊を鎮すること二十余年、軍は訓えを稟けて粛然とし、吏士は法を奉じてますます明らかとなった。風俗は和平に至り民は富み、威声の重さは山の如くである。先に淮西征伐に際し諸将を統べる命を受け残党を殄滅させたのはその指図の功であり、斉の地に妖が興った際には師を分けて進討し元悪を梟首させたのはその略地の功である。凱旋を聞いて間もなく執珪を請い、深く朝廷への誠を陳べ韓侯の志を継いだ。朝天の慶あり、日に就いてまさに伸べんとす。さらに上表して兵権を固辞し、三度諭しても志はますます堅い。藩鎮にあっても宣布にあっても朝廷の意に切実に応え、我が輔弼として離れがたい誠意である。ここに良き願いを遂げさせ上司の任を兼ねさせる。論道の栄をもって八政に斉しくし、中枢の長として万務を賛けさせる。玄袞赤舄の寵光を備えるのはこの人でなくして誰が任にふさわしいか。司徒・中書令を守るべし。」
  • こうして吏部尚書張弘靖が平章事を兼ね弘に代わって宣武を鎮めることとなった。
  • 憲宗が崩じると弘は冢宰を摂した。十五年六月(820年)、本官のまま河中尹・河中晋絳節度観察等使を兼ねた。この頃弟の充が鄭滑節度使、子の公武が鄜坊節度使であり、父子兄弟が皆節鉞を秉り人臣の寵として一時に冠絶した。二年後、老齢を理由に節鎮を辞すよう三度上表しそれが許され、依然として司徒・中書令を守った。その年十二月に病没した。享年五十八。太尉を追贈され絹二千匹・布七百端・米粟千石を賻贈された。
  • 弘は大梁を鎮すること二十余年、四州の徴賦を悉く私有し朝廷に上供しなかった。私財として銭百万貫・粟三百万斛・馬七千匹を蓄え兵器もこれに相応した。財を集め粟を蓄えることに専念し厳法で威を樹てたが、荘重で寡言、深謀勇断を備え、呉少誠・李師道ら隣接の勢力も皆これを恐れた。詔使が宣諭に来ても弘は多くの場合傲慢な態度で応対した。斉・蔡の賊が平定され勢いが屈して入朝すると、両朝はいずれも特別な寵遇を加え、弘は名位を全うして最期を迎えた。人臣として幸運な生涯であった。この時すでに子の公武は没しており、弘の孫の紹宗が跡を継いだ。

弘の子・公武

  • 公武は宣武馬歩都虞候として蔡州討伐の軍を率い、賊平定後、検校右散騎常侍・鄜州刺史・鄜坊等州節度使となった。実父(庶母)の喪に服し起復して金吾将軍となり旧職に留まった。十四年(819年)、父の弘が入朝すると公武も節度使を辞し右金吾将軍として朝廷に入った。その後弘が河中に出鎮し叔父の充が宣武に移ると、公武は「二人の父が並んで重鎮に居るのに私が若輩で執金吾の職にあれば、一門の盛んさに耐えかねるのではないか」と嘆き宿衛を固辞し右驍衛将軍に改められた。性格は謙遜で富貴に驕らなかった。弘が河中を退くと崇里の邸に住み、公武は宣陽里の北門に住んで父を見舞う中、病もなく急死した。戸部尚書を追贈された。

弘の弟・充

  • 充は舅の劉玄佐を頼り河陽・昭義の牙将を歴任した。兄の弘が宣武を節制すると召還され親兵を統率し御史大夫を奏授された。弘は法が厳しく人々は身の安全を確信できなかったが、充だけは謙恭で礼を守り怠らず、士心を広く得た。しかし血縁として権重を担う立場から常に不安を感じていた。元和六年(811年)、近郊で狩猟の折、単騎で洛陽に帰った。当時朝廷はまだ弘に姑息であったが、充に異心のないことを憐れみ右金吾衛将軍に抜擢した。十二月、大将軍に転じ少府監を歴任。十五年(820年)、甥の公武に代わって鄜坊節度使・検校工部尚書となった。
  • 長慶二年(822年)、幽・鎮・魏で再び乱が起こった。朝廷は王承元の冀州の兵数千が滑州にあり境を接するため互いに誘われることを恐れ、充と承元に守地を交換させ検校左僕射とした。この年、汴州節度使李愿が三軍に追放され都将李絺が留後に立てられた。朝廷は充が久しく汴州にあり人心を得ていたため宣武節度使に任じ義成の軍を統率させ絺討伐に向かわせた。折しも絺は脳に疽ができ、部下の李質に兵を託した。質は計略で首謀者を誅し絺を京師に送り返した。充は戦わずして大梁に入った。当時陳許の李光顔も詔を奉じ絺を討伐しようと尉氏に陣を敷き、汴州を先に取ろうと略奪を働いていた。汴州監軍使姚文寿も許下の軍を招こうとしていたが、充は中牟でその企みを聞き軍を率いて直ちに城下に至った。汴州の人々は日頃から充を慕っていたため皆歓喜して迎え、もはや疑念はなかった。検校司空を加えられ、潁州が滑州に隷属させられた。充は安堵すると密かに軍中で以前騒乱に加担した千余人を調べ上げ、ある日一斉に父母妻子ともに国外へ追放し、境内にとどまる者は斬ると命じた。以後軍政は大いに治まり、汴州の人々は皆充を敬愛した。
  • 四年八月(824年)、慣例により司徒を加えられることになったが、詔が届く前に急病で没した。享年五十五。司徒を追贈され諡は肅。充は内外ともに将家に生まれながら奢侈を好まず常に簡素を旨とした。機に臨んで決断すれば後悔することがなく、名将として称えられた。

李質

  • 李質は汴州の牙将。李絺が留後になると質を心腹として頼った。朝廷が絺を郡守に任じようとすると、絺は節鉞を望み質が説得しても従わなかった。絺が頭に疽を発すると、質は監軍姚文寿と謀り絺を斬りその首を京師に送った。詔により韓充が汴州を鎮めることになったが、充が到着する前は質が軍州事を権知した。牙兵二千人に日々酒食を給していたため財力が損なわれていた。充が来ることになると質は「もし韓公が着任した途端に二千人分の日々の饗応を打ち切れば人心は必ず離れる。今除かねば後に禍根を残し、この弊害を我が帥に残すわけにはいかない」と述べ、日々の饗応を停止する処置をとってから充を迎えた。その後金吾将軍に召され、長慶三年四月(823年)に没した。