舊唐書卷一百五十五 列傳第一百〇五 薛戎

経歴

  • 薛戎、字は元夫、河中宝鼎の人。若くして学問に優れながら名声を求めず毗陵の陽羨山に住んだ。四十を過ぎても操を変えなかった。江西観察使李衡が従事に招いたが使者が三度往復してようやく応じた。旧宰相斉映が衡に代わってもまた留任させ、府が罷免されると山に帰った。福建観察使柳冕が従事に招き数か月後殿中侍御史に転じた。泉州刺史が欠員になると冕は戎に権知させた。
  • この頃、姚南仲が鄭滑を節制しており、従事馬総が正直だったため監軍使に誣告され泉州別駕に貶されていた。冕は権勢に迎合し総の罪を成立させようとし戎に取り調べを任せたが、戎は総に非がないとして冕の意に従わず別に事実を明らかにした。戎が泉州から戻ると、冕は威勢を張り衙で客を迎えたが、戎は東廂を経て悠然と入室し、冕は屈することができず徐に立って迎え一礼して退いた。冕はさらに戎の罪を構えて上奏し、戎を仏寺に置いて武夫に囲ませ辱めを加えること数か月、総の罪を認めさせようとしたが、戎は動じなかった。杜佑が淮南に鎮し戎の冤罪を知り、その上表を朝廷に取り次ぎ冕に書を送って諭したためようやく解放されたが、戎は職を辞して江湖の間に寓居した。
  • 後に閻済美が福建観察使となりこの事情を詳しく知り副使に奏請した。済美が浙東に移ると戎も随行し侍御史に改まり、刑部員外郎として朝廷に入った。河南令に出て衢・湖・常三州刺史を歴任し浙東観察使に遷った。赴任地では常に善政の評判を得た。数年後、病を理由に辞官。長慶元年十月(821年)に没し左散騎常侍を追贈された。
  • 戎は身を慎み倹約に努め虚名を求めなかった。俸禄の余りは一族に分け与え、没後も非難する者はいなかった。兄弟五人のうち末弟の放が最も知られた。

戎の弟・放

  • 放は進士に及第し、端正で寡黙な性格で是非にあまり拘らなかった。幕府に多く仕え敏腕であった。試大理評事から右拾遺に抜擢され、補闕に転じ水部・兵部の員外郎を経て兵部郎中に遷った。
  • 憲宗が皇太子(後の穆宗)に読書を好ませようと端士を選び経義の輔導にあたらせた際、放は皇太子侍読に選ばれた。穆宗が即位し親政前の間、放は常に側近くにあり密かに機務に参与した。穆宗は放に「私は若くして帝位を継ぎ荷いきれぬことを恐れる。先生は宰相となり至らぬ点を正してほしい」と述べたが、放は「臣は実に凡庸で冕旒に侍ることさえ勿体ないのに、大位を汚すには足りません。輔弼の任には別に賢能な者がおります」と頓首して答えた。その言葉には飾りがなく常にこの調子であった。穆宗はその誠実さを深く嘉し、思政殿に召して対問し金紫の服を賜った。工部侍郎・集賢学士に転じ、要職ではなかったが恩顧はますます厚くなり、刑部侍郎に転じても職掌は同じであった。
  • 穆宗が近臣に「経史を学びたいがどちらを先にすべきか」と問うと、放は「経は先聖の至言であり孔子が発明したもので天人の極致、万代不変の典である。史は前代の成敗得失の跡を記し興亡を鑑みるに足りるが、得失が入り交じり是非の基準が定まらず経典とは比べられない」と答えた。帝が「六経の重んじるところは一様でなく、学に志す者も白頭になるまで通じきれない、要をどう得ればよいか」と問うと、放は「『論語』は六経の精華、『孝経』は人倫の根本。理を窮め要を執る点でまさに聖人の至言と言えます。漢朝は『論語』を学官の首に置き、光武帝は虎賁の士に『孝経』を習わせ、玄宗も自ら『孝経』の注解を著し、いずれも当時の大治・天下泰平をもたらしました。人が孝慈を知ることが和楽な気風を生むのです」と答えた。帝は「聖人が孝を至徳要道とするのはまことにその通りだ」と述べた。放は兵部侍郎・礼部尚書、院事を判じるまでに転じた。
  • 放は家庭内でとりわけ孝悌を重んじたが、身寄りのない一族百口を養い家計は常に苦しく俸給の薄さを嘆いていた。対問の折に地方官への転出を懇願し、たまたま欠員があったため任じられた。江西を治めるにあたっては清廉のみを旨とし、その地の人々は今もこれを慕う。宝暦元年(825年)、江西観察使在任のまま没し朝を一日廃した。

史論

  • 史臣曰く、穆秘監(穆寧)の剛正で節を曲げぬさまは、寒松が険しい岩に寄り添うように千丈の勁節を保つがごとし。竇容州(竇群)の果断は鷙鳥が雀を追うように英気が人を動かし、隠者の中でもこれに及ぶ者は稀である。ただし激しすぎる点は君子の取るところではない。塤と篪のように調和し偏らぬ士行の美は崔氏の子らに見られる。李建・李遜の貞方、薛戎・薛放の道義は、元和以来の令族と称するにふさわしい。
  • 賛に曰く、穆氏の贊・質、竇氏の常・群は時代の傑士に列し気概は人文に映える。李遜・李建の兄弟は英俊、崔氏の四兄弟は済々たり。薛氏三代の兄弟もまた優劣つけがたい人材であった。