舊唐書卷一百五十五 列傳第一百〇五 李遜

李遜、字は友道、後魏申公李発の後裔で趙郡申公房の出(?–823年)。地方官として治績を重ね、越州・襄州・許州で節度観察使を歴任し京兆尹にも至った。李師道の帰順を説くなど交渉にも力を発揮した。

年表(6件)

出自と経歴

  • 李遜、字は友道。後魏の申公李発の後裔で、趙郡では申公房と呼ばれる。曾祖父の進徳は太子中允、祖父の珍玉は昌明令、父の震は雅州別駕。荊州石首に代々住んだ。
  • 遜は進士に及第し襄陽掌書記に招かれた。さらに湖南で留務を主宰し声績を上げ、池・濠二州刺史を歴任した。以前、濠州の都将楊騰が士卒を削り虐げたため州兵三千人が騰を殺そうと謀り、騰は察知して揚州に逃げたが家族は皆殺された。濠州の兵は落ち着かず略奪を働いていたが、遜が着任すると余乱がなお続いていたところに順逆利害を説いて回り、皆武器を捨てて謝罪し治安が回復した。観察使の規定外の徴役にはすべて従わなかった。虞部郎中として朝廷に入った。
  • 元和初、衢州刺史に出た。政績が優れ越州刺史・御史大夫・浙東都団練観察使に遷った。以前、貞元初に皇甫政が浙東に鎮した際、福建で兵乱があり観察使呉詵が追われたため、政は隣接する自鎮の防備として兵三千の増員を求め、賊平定後に廃止すると約したが、平定から三十年近く経っても増兵はそのままだった。遜は赴任数日でこれを廃止するよう上奏した。遜は貧富を均し弱きを扶け強きを抑えることを政の要とし、赴任地は常に治まった。
  • 九年(814年)、給事中として朝廷に入った。遜は旧制で「只日」(奇数日)にのみ群臣が政務を上奏する慣例を論じ、「君に仕える義は諫言を隠さぬこと。誠意を尽くすのに日を選ぶ必要はない。群臣の上奏を只日に限れば、一年のうち天顔を拝し可否を献ずる機会がどれほどあろうか」と上奏した。憲宗はこれを嘉し時を選ばぬ奏対を許した。まもなく戸部侍郎に遷った。
  • 元和十年(815年)、襄州刺史・山南東道節度観察等使を拝命した。襄陽は以前八郡を領し唐・鄧・随もその中にあったが、当時呉元済討伐の朝議で唐・蔡が隣接するため鄧を唐州に隷属させ三郡を別に節制し高霞寓に統率させ討伐に専念させた。遜は五州の賦餉を担った。
  • 時に厳綬に代わって襄陽を鎮していた孫が、八州の兵を率いて唐州で討伐にあたっていたが、綬は功なく兵権を罷免され高霞寓が代わって唐州で兵を統率し襄陽軍も霞寓に隷属した。襄州にいる兵士の家族を遜は厚遇したため、士卒の多くが霞寓の陣を離れ帰郷した。やがて霞寓が賊に敗れると咎を遜に転嫁し兵糧供給の遅れを訴えた。霞寓は元来禁軍出身で内官が彼を助けており、霞寓が貶官された後も宦官たちは遜が霞寓の軍を妨害したから敗れたと言い続けた。帝が中使を襄州に遣わし事の曲直を調べさせたところ遜に非があると奏上され、太子賓客分司に左遷され、さらに恩王傅に降された。
  • 十三年(818年)、李師道が帰順の意を示すと、遜は左散騎常侍として東平に馳せ諭旨に赴いた。師道は詔の意に動かされ帰順を請うたが、まもなく部下に惑わされ取りやめた。遜は帰還後、京兆尹を拝命し国子祭酒に改まった。
  • 十四年(819年)、許州刺史・忠武節度・陳許溵蔡等州観察処置等使を拝命。折しも戦乱の直後で秩序が乱れていたが、遜が着任すると大軍を集めて規律を定め賞罰を厳格にすると号令し、士卒は皆感激した。
  • 長慶元年(821年)、幽・鎮で相次いで乱が起きた。遜は自ら討伐に赴くことを願ったが許されず、兵一万を率いて行営に合流するよう命じられた。遜は詔を受けるとその日のうちに出兵し、諸軍に先んじて到着したため検校吏部尚書に進んだ。まもなく鳳翔節度使に改まったが、京師に至る途上で病を理由に辞退し刑部尚書に改まった。長慶三年正月(823年)、六十三歳で没し朝を一日廃し右僕射を追贈された。
  • 遜は幼くして孤児となり荊州江陵に寓居した。弟の建と共に貧しさに耐え衣食を分かち学問に励んだ。兄の造は二人の弟の賢さを知り、日々生計を助けその志業を成した。建は遜に先立つ一年前に没した。兄弟ともに顕職に至り士君子はこれを称えた。諡は恭粛。造は早世した。

遜の弟・建

  • 建、字は杓直。家は清貧で旧来の家業もなく、兄の造・遜と荊南で自ら耕して親を養い、学問に励んだ。進士に及第し秘書省校書郎を授けられた。徳宗はその名声を聞き右拾遺・翰林学士に用いた。元和六年(811年)、事に連座して職を罷免され詹事府司直に降された。高郢が御史大夫となると殿中侍御史に推挙され兵部郎中知制誥に遷った。詔勅を練るのが遅いと自認し文翰の職を望まず京兆尹に改まった。宰相韋貫之と親しく、貫之が罷相すると建も澧州刺史に出た。太常少卿に召され本官のまま礼部貢挙を知った。建は取捨の判断が適切でなく請託に惑わされたため、その年の選士の質は落ち俸禄を罰せられた。翌年礼部侍郎を授けられたが人情に合わずまもなく刑部に改まった。
  • 建は名声高いにもかかわらず廉潔倹約を旨とし家の垣屋も修めず、士友はこれを推重した。長慶二年二月(822年)に没し工部尚書を追贈された。三子は訥・恪・樸。訥が最も知られ、官は華州刺史・検校尚書右僕射に至った。