舊唐書卷一百五十五 列傳第一百〇五 竇群

竇群、字は丹列、扶風平陵の人(?–814年)。若くして処士として毗陵に隠棲し節操で知られたが、韋夏卿の推薦で左拾遺に抜擢された。性格は厳しく執念深く、宰相李吉甫を陥れようとして発覚し左遷される波乱の生涯を送った。

年表(3件)

出自と経歴

  • 竇群、字は丹列、扶風平陵の人。祖父の亶は同昌郡司馬、父の叔向は詩で知られ代宗朝に左拾遺に至った。兄の常・牟、弟の鞏はみな進士に及第したが、群だけは処士として毗陵に隠居し節操で知られた。母の喪では自ら指を噛み棺に納め、廬墓して喪に服した。後に『春秋』を啖助の門人盧庇に学び、『史記名臣疏』三十四巻を著した。貞元中、蘇州刺史韋夏卿が隠逸の士として推薦しその著書も献じたが返答はなかった。夏卿が吏部侍郎から京兆尹に転じた際、拝謁の折に再び群を推薦し、群は左拾遺に召され、侍御史に遷り入蕃使秘書監張薦の判官を務めた。群は対問の折「陛下即位二十年にして初めて草澤より臣を拾遺に抜擢された。それほど慎重に登用したのに、今二十年慎重に用いた臣を和蕃の判官に用いるのはあまりに軽率ではないか」と述べ、徳宗はその言を異とし留任させ再び侍御史とした。
  • 王叔文の党の柳宗元・劉禹錫は群を軽んじ、群も彼らに従わなかった。その党は群を左遷しようとしたが韋執誼が止めた。群がかつて王叔文を訪ねた際、叔文は榻を撤して迎えた。群は「事には予測できぬことがある」と言い、叔文が「どういうことか」と問うと、群は「去年李実は寵を恃み権勢をふるったが、そのとき公は道端をうろつく江南の一吏に過ぎなかった。今公はまさにその実の立場に立っている。道端に別の公のような者が現れることを恐れぬのか」と答えた。叔文はその言を異としながらも用いなかった。
  • 憲宗即位後、膳部員外・侍御史知雑を兼ね、唐州刺史に出た。節度使于頔は群の名声を聞き会見すると、群の直言に頔は喜び、山南東道節度副使・検校兵部郎中・御史中丞を奏留し紫金魚袋を賜った。宰相武元衡・李吉甫はともに群を重んじ吏部郎中に召した。元衡は宰相となると群を自分の後任の中丞に推した。群は刑部郎中呂温・羊士諤を御史に推薦したが、吉甫は二人を険躁として数日認めず、群らは吉甫を怨んだ。
  • 三年八月(808年)、吉甫が宰相を罷免され淮南に出鎮すると、群らはその失脚に乗じて陥れようとした。吉甫がかつて術士陳登を安邑の私邸に泊めていたことがあり、群は翌日役人に登を捕らえさせて拷問し、吉甫の陰事を偽造して密奏した。帝が登を召して直接尋問すると偽りがすぐに露見し、憲宗は怒って群らを誅そうとしたが吉甫が救ったため湖南観察使に出された。数日後、黔州刺史・黔州観察使に改められた。黔中在任中、大水で城郭が壊れたため再建し、渓洞の諸蛮に工事の督促をきつく行ったため辰・錦の生蛮が険を頼んで乱を起こし、群はこれを平定できなかった。六年九月(811年)、開州刺史に貶された。二年後容州刺史・容管経略観察使に改まり、九年(814年)に召還されたが衡州に至って病没した。享年五十。
  • 群は性格が厳しく執念深く、事にあたっては生死を顧みなかった。この時朝廷が召還したのは重用のためと言われ、人々は皆恐れたが、群の死を聞いてようやく安堵した。子は謙余・審余の二人。

群の兄・常

  • 兄の常、字は中行。大暦十四年(779年)進士に及第し広陵の柳楊に住んだ。廬を結び樹を植え、俗世に阿らず講学著書に専念し二十年間出仕しなかった。貞元十四年(798年)、鎮州節度使王武俊がその賢を聞いて使者を送り掌書記に招いたが応じなかった。同年、杜佑が淮南に鎮すると校書郎を奏授され節度参謀となった。元和六年(811年)、湖南判官から侍御史に召され水部員外郎に転じた。朗州刺史に出て固陵・潯陽・臨川三郡の太守を歴任。国子祭酒として召還され致仕を願った。宝暦元年(825年)、七十歳で没した。子の弘余は会昌中に黄州刺史となった。

群の兄・牟

  • 牟、字は貽周。貞元二年(786年)進士に及第し秘書省校書郎・東都留守巡官を試補された。河陽・昭義の従事を歴任し検校水部郎中となり緋を賜り、再び留守判官となった。都官郎中として朝廷に入り、澤州刺史に出て国子祭酒に召された。長慶二年(822年)、七十四歳で没した。子の周余は大中年間に秘書監となった。

牟の弟・庠

  • 牟の弟の庠、字は胄卿。国子主簿に初任し、吏部侍郎韓臯が武昌に出鎮すると推官に招かれた。臯が浙西に移ると節度副使・殿中侍御史を奏請され澤州刺史に遷り、さらに宣歙副使となり奉天令・登州刺史・東都留守判官を経て信・婺二州刺史を歴任。享年六十三で没した。子は繇・載。

群の弟・鞏

  • 鞏、字は友封。元和二年(807年)進士に及第。袁滋が滑州に鎮すると従事に招かれ、滋が荊・襄二鎮に移った際も従い管記の任を掌った。平盧薛平も副使に招いた。入朝して侍御史を拝命し司勲員外・刑部郎中を歴任。元稹が浙東観察使のとき副使・検校秘書少監・御史中丞となり金紫を賜り、稹が武昌に移ると鞏も従った。鞏は五言詩に優れ、兄弟の中でも牟の詩と並んで時に賞賛された。性格は温雅だが議論を通すのが苦手で、士友との議論では口を動かしても言葉を発せず、白居易らは彼を「囁嚅翁」と呼んだ。鄂渚で没した。享年六十。六人の子のうち景余・師裕が最も知られた。