経歴
- 崔邠、字は処仁、清河武城の人。祖父は結、父は倕、いずれも官位は低かった。邠は若くして進士に及第し、さらに賢良方正科にも登った。貞元中、渭南尉を授けられ、拾遺・補闕に遷った。裴延齢を常に上疏で論じ、時に知られた。兵部員外郎知制誥から中書舎人まで七年務め、さらに吏部選事を権知した。翌年礼部侍郎、次いで吏部侍郎に転じ金紫を賜った。
- 邠は温厚で沈着、清廉倹約を重んじ皇帝にも重んじられた。裴垍が宰相に推挙しようとしたが病で答弁が難しく沙汰止みとなった。兄弟四人が同時に朝請に参じ、孝悌和睦の評判が高かった。後に太常卿・知吏部尚書銓事に改まった。太常卿就任の慣例として『四部楽』を署で大演するが、邠は自邸から冠を脱いで母の輿を自ら導き、公卿もこれを避けて道を譲り、街道の栄誉となった。母の喪に服し一年余りで没した。元和十年三月(815年)、六十二歳。吏部尚書を追贈され、諡は文簡。
邠の弟・鄯
- 弟の鄯・郾・鄲ら六人。子の璀・璜、璀の子彦融は皆進士に及第し台閣の官職を歴任した。
- 鄯は若くして文学に優れ進士に及第。元和中、監察御史を歴任。太和元年十月(827年)、太子詹事から左金吾衛大将軍を拝命。鄯の兄弟六人は皆三品官に至った。邠・郾・鄲の三人は貢挙を掌り銓衡を司り、名門として時の名声を集めた。
- 鄯は太和九年冬(835年)、左金吾大将軍として無病で急死した。十日と経たず甘露の変(訓・注の乱)が起こり、その乱は左金吾衛から始まった。君子はこれを見て鄯の死は崔氏の積善の証だと知った。礼部尚書を追贈された。子は瑄。
邠の弟・郾
- 郾、字は広略。進士に及第し平判にも合格し集賢殿校書郎を授けられた。三度昇進を重ね監察御史・刑部員外郎となった。資質秀麗で重厚な人柄を人々に敬愛されたが、知らぬ者は事を高く見て素っ気ないと誤解した。内憂に服したのち吏部員外に復職すると、奸吏も欺けず孤独無援の者も滞ることなく銓叙の美として称された。左司郎中に再遷。
- 元和十三年(818年)、鄭余慶が礼儀詳定使となった際、礼学に通じた者として詳定判官・吏部郎中に選ばれた。十五年、諫議大夫に遷った。
- 穆宗即位後、酒色に耽り朝議が常に遅れたため、郾は同僚鄭覃らと延英殿で切諫し、帝は嘉して遊興を控えた。長慶中、給事中に転じた。
- 敬宗(昭愍)即位後、侍講学士に選ばれ中書舎人に転じた。思政殿に謝恩に参じ「陛下が臣を侍講に用いて半年余、未だ経義を問われたことがない。今転任に恥じ入る」と述べると、帝は「政務が落ち着けば教えを請う」と答えた。同僚の高鉞が「陛下が善を好まれても儒生を招かねば天下は道を重んじているとは知りません」と諫めると、帝は深く反省し錦彩を賜った。郾は退いて同僚高重と共に『六経』の要言を抄出し十巻の『諸経纂要』を編み、帝に献じた。帝は喜び錦彩二百匹・銀器等を賜った。
- その年礼部侍郎に転じ東都で挙人を試した。二年間貢士を主宰し公平に試験を行い、抜擢した者はみな名士で、後に大中・咸通の代に宰相名卿となった者が十数人に及んだ。陝州観察使に出た。旧来上供が不足すると官吏の俸給を削って補う弊があり、年八十万にのぼったが、郾は廉使の常用の資金で代えた。二年後、政績が朝廷に聞こえた。鄂岳安黄等州観察使に遷り、さらに五年後浙西道都団練観察使に移った。寛政で疲弊した民を安んじたが、鄂渚在任中は厳法を用い一人も死罪を免じなかった。江湖の間に盗賊が集まっていたため蒙衝の小艦を作り千里を往来し一月で群盗を捕えた。三度廉察の職を歴任し、常に清簡で財用に余裕があり治安が安定した。開成元年(836年)、六十九歳で没し吏部尚書を追贈され、諡は徳。
- 郾は兄邠・弟鄲らと共に評判が高かったが、財を惜しまず度量が広い点は兄弟の中でも際立った。子は瑤・瑰・瑾・珮・璆。
郾の子・瑤
- 瑤は太和三年(829年)進士に及第し、地方官から朝廷に入り中書舎人に至った。大中六年(852年)貢挙を掌り、まもなく礼部侍郎を拝命。浙西観察使に出て、さらに鄂州刺史・鄂岳観察使に遷りその職で没した。瑰・珮・璆は郎署・給諫の官に至った。
郾の子・謹
- 謹は大中十年(856年)進士に及第し、幕府に累任し尚書郎・知制誥を歴任。咸通十三年(872年)貢挙を掌り人材の抜擢に長けた。まもなく礼部侍郎を拝命し湖南観察使に出た。
邠の弟・鄲
- 鄲は進士に及第し監察御史を歴任、三度昇進して考功郎中となった。太和三年(829年)本官のまま翰林学士を兼ね中書舎人に転じた。六年、学士を罷免。八年、工部侍郎・集賢殿学士となり礼部を権知し、正式に兵部侍郎を拝命して吏部東銓事を判じた。
- 文宗は政務に勤しみ選曹の不正を常に憂い、延英殿で宰臣に「吏部は殊に人材を選ばず、公正に選べぬなら改革すべきではないか」と問うと、李石は「令録は検討の余地があるが他官は旧に従うべき」と答えた。帝は「旧に従えば単に官を配するだけで賢愚を見分けられまい」と述べ、三銓を召して「卿らは令録を選ぶ際どう擬するか」と問うた。鄲は「資序が相当であれば治績を問い可否を見て擬する」と答えた。帝が「資序に合いながら才の劣る者にはどうするか」と問うと「辺遠の閑職に配する」と答え、帝は「不肖の才で辺民を治めれば民の苦しみは明らかだ。朝廷が理を求めるなら遠近ともに人材を得ねばならず、そうでなければ民が弊害を受ける」と述べた。まもなく吏部侍郎を拝命した。
- 開成二年(837年)、宣州刺史・御史中丞・宣歙観察使に出た。四年、太常卿として朝廷に入り、七月、本官のまま同中書門下平章事となり、まもなく中書侍郎・銀青光禄大夫を加えられた。会昌初、李徳裕が政を執ると鄲兄弟と平素親しく、鄲は宰相位に長く在り、その後方鎮・太子師保を歴任して没した。