僧鑒虛断罪の剛直
- 存誠、字は資明、河東の人。父勝は『抜河賦』で名高い文才の持ち主。進士及第、諸府従事から監察御史・知館駅。元和初、劉辟討伐で駅伝業務が繁多になった際、宦官を館駅使とすることに反対する密表を上げ、諫官も同調して撤回させた。殿中侍御史・度支員外郎を経て裴垍の宰相時代に起居郎・司勛員外・刑部郎中・兼侍御史知雑事・兵部郎中・給事中。瓊林庫使の労役者過剰申請を「賦役逃れの偽装」として却下し、咸陽縣尉袁儋の冤罪事件でも敕を執って正義を通し、憲宗に称賛され御史中丞に抜擢された。
- 僧鑒虛が権貴に取り入り不正蓄財していた件で、於頔・杜黃裳の家の私事に連座して逮捕、存誠が数十万の贓罪を摘発し死罪と裁定した。権要たちが助命を求め徳宗(原文ママ、実際は憲宗か)が釈放を宣したが存誠は詔に従わず、「罪状は既に明白、赦すなら先に臣を殺してから」と抗弁し押し通し、鑒虛は結局笞死させられた。洪州監軍高重昌が信州刺史李位を謀反として誣告した際も、存誠は一日に三度上表して御史台での審理を求め、無実を証明させた。
- 給事中に再任後まもなく御史中丞に復したが赴任前に急死、憲宗は深く惜しみ贈刑部侍郎とした。温和で寛容な人柄ながら職務では確固として動じず士人に重んじられた。子は廷老。
薛存誠子孫 廷老・保遜・昭緯
- 廷老は謹直な父の風を継ぎ通達な性格。宝暦中、右拾遺として、敬宗の清思院造営の奢侈(銅鏡三千枚・金銀薄十万枚)を諫めようとした際、他の諫官が具体的な指摘をできぬ中、廷老は「修造の場所は知らぬが瓦木の運搬量から使途を察した」と巧みに指摘し敬宗を黙らせた。史館修撰。
- 李逢吉の専権期、廷老の直言を嫌われ、鄭権の広州節度使就任時の私財横流しを弾劾したことや逢吉の党人張權輿・程昔範の諫官起用に反対したことで逢吉の怒りを買い、臨晉縣令に出された。
- 文宗即位後、殿中侍御史から太和四年に翰林学士、放逸で酒好きな性格が文宗の不興を買い五年で罷免、刑部員外郎・郎中・給事中を経て開成三年卒。公卿の間でも媚びず正人の風望があったと評され贈刑部侍郎。子の保遜は進士及第し給事中、その子昭緯は乾寧中に禮部侍郎として文章に優れたが崔胤に嫌われ磎州刺史で卒した。