舊唐書卷一百五十三 列傳第一百三 盧坦

正論を貫いた地方官

  • 坦、字は保衡、河南洛陽の人。義成軍判官時代、節度使李復の病篤い際、監軍薛盈珍が変事を恐れ府庫を封じ兵五百を接収しようとしたのを坦が説得して撤回させた。復の死後は喪を護送し東都に戻り壽安令。
  • 河南尹の厳しい徴税期限に対し、坦は独断で「織り上がり次第納入せよ、遅れの罰は自分が受ける」として住民を守り、実際に罰を受けたことで名を挙げた。庫部員外郎・兼侍御史知雜事の頃、李锜の反乱で祖廟の破却が議論された際、坦は「淮安王神通の功績、父子兄弟の罪の連座は五代前まで及ぶべきでない」と論じ破却を止めさせた。
  • 武元衡の宰相就任時、坦は中丞、李元素が大夫として東都分司を命じられたが間もなく台に戻った。裴均が僕射として不当な序列に座った際、坦が「姚南仲が僕射の際は違った」と指摘し「南仲は権幸と交わらぬ人物」と述べたことで疎まれ右庶子に降格、宣歙池観察使に出された。三年後、刑部侍郎・鹽鉄轉運使、戸部侍郎・判度支。
  • 元和八年、黄河の氾濫で崩壊しつつあった西受降城の移転(宰相李吉甫は天徳故城への移転を提案)を巡り、坦は李絳と共に「西城は張仁願の築いた匈奴防衛の要衝、河が二三里後退しただけで放棄すべきでない、天徳故城は僻地で烽火の連携も途絶える」と反対、城使周懷義も同意見であったため計画は実現しなかった。まもなく劍南東川節度使に出鎮したが、閏月の軍糧を軍事費に転用したことで批判を受けた。貞元十二年九月、六十九歳で卒し贈禮部尚書。

史論

  • 史臣曰く――古の諍臣には言葉のために死んだ者もいた。その次に位置する、裾を引き欄干を折ってでも節を曲げなかった者も、また難しい在り方である。袁高の盧杞への抵抗、薛存誠の鑒虛断罪には、古人の遺風が見て取れる。段平仲の逆鱗に触れる気概はその過ちを糾したものであろう。曹文洽が上表を奪って憤りを晴らし、劉迺(永夷)が絶食し盗泉の水を飲まなかったのは、節義の士と言うべきである。姚南仲の厚葬批判、盧坦の西城論は、その考えの深さを示している。これらの人物を見れば、この時代に君子がいなかったと言うのは大きな誣いであろう。
  • 贊に曰く――霊草(佞を指し示す草)が佞人を指すように、諫臣は主上の過ちを正す。袁高と薛存誠こそ、人中の屈軼(佞を指す草の異名)である。寬夫は雀のように小気味よく躍動し、廷老は鴻のように高く舞った。姚南仲・盧坦の上奏は、君子の言葉であった。