舊唐書卷一百五十三 列傳第一百三 袁高

盧杞への異議と農牛政策

  • 高、字は公頤、袁恕己の孫。若くして志節を慕い進士及第、諸府に佐官として招かれ評判を得た。代宗朝で給事中・御史中丞、建中二年、京畿観察使に抜擢されたが論事が意に沿わず韶州長史に貶され、後に給事中に復した。
  • 貞元元年、徳宗が失脚した盧杞を饒州刺史に復権させようとし高に詔書起草を命じた際、高は宰相盧翰・劉從一に「盧杞の三年の宰相在任は忠良を排斥し天下を疲弊させた元凶、大郡刺史への復権は天下の期待を裏切る」と訴えた。翰らが応じないと高は詔書を留め、正殿でも「三軍将校が杞の肉を食らいたいと願い百官も仇のごとく嫌う」と強く諫奏、諫官陳京・趙需・裴佶・宇文炫・盧景亮・張薦らも上疏に加わった。徳宗の「盧杞にも至らぬ点があったのは朕の過ち」との弁明に、高は重ねて「杞は奸臣で意図的な詭計、赦免はよいが刺史任命は撤回すべき」と食い下がり、最終的に饒州任命は撤回された。太子少保韋倫・太府卿張獻恭らも高の忠節を称賛した。
  • 貞元二年、安史の乱後の関輔の民の困窮を憂い、朝廷が耕牛を給付する際の対象基準(五十畝以下の困窮者への優先配分)を高が提言し採用された。まもなく在官のまま六十歳で卒し朝野が惜しんだ。憲宗朝、宰相李吉甫が高の忠鯁を語り、贈禮部尚書となった。