舊唐書卷一百五十三 列傳第一百三 劉迺

義人としての人材登用論と忠死

  • 迺、字は永夷、洺州廣平の人。高祖武幹は武徳初の侍中、父如璠は昫山丞(迺の栄達で民部郎中を追贈)。幼くして聡明で『六経』を暗記し文才で知られた。天寶中に進士及第、父の喪に孝を尽くした。
  • 選官の在り方に不満を持ち、知銓舎人宋昱への書簡で「文部の選考は狭い判語のみで才を測るもので、堯舜の時代の九徳・九載による厳正な考課とは程遠い。門地や弁舌で選ぶのは君子の恥じるところ」と痛烈に批判、政事・文学・治家・臨節の四点から人物を見るべきだと提言した。
  • 剡縣尉・會稽尉、宣州観察使殷日用の判官、宣慰使李季卿の推薦で大理評事・兼監察御史。転運使劉晏の下で江西の巡覆を行い多くの租税を免除、殿中侍御史・檢校倉部員外・民部郎中として浙西留後を兼ね晏の征賦を補佐した。
  • 大歴十二年、元載誅殺後に司門員外郎、十四年、崔祐甫が実権を握り旧友の迺を重用、郭子儀の「尚父」冊礼の文を他の官が作れなかったところ迺が即座に見事な文を作り祐甫を感嘆させ、給事中・権知兵部侍郎に抜擢された。楊炎・盧杞が宰相となると正論を嫌われ五年間昇進が止まったが、建中四年夏、正式に拝命した。
  • 同年冬、涇原の兵乱で徳宗が奉天へ逃れた際、迺は病臥中の自宅に朱泚の使者から甘言で誘われても病篤いと称して拒み、偽宰相蔣鎮が自ら来訪すると声を失ったふりをして全身を灸で焼き抵抗、鎮も「自分もかつて曹郎の列にありながらこの体たらく、これ以上賢者を汚すまい」と嘆いて退いた。徳宗が梁州へ再幸したと聞くと迺は寝台から身を投げ胸を叩いて慟哭、そのまま絶食して六十歳で卒した。徳宗の帰京後、その忠烈が伝わり贈禮部尚書。子は伯芻。

劉迺子孫 伯芻・寬夫・端夫・允章

  • 伯芻、字は素芝、進士及第。淮南杜佑の従事の後、呉中に隠棲、右補闕・主客員外郎を経たが友人との宴席が韋執誼に密奏され虔州掾曹に貶された。裴垍に機知を評価され考功郎中・集賢院学士・給事中。垍の罷相後の贈官を渋る李吉甫(垍との旧怨)に対し伯芻は上疏で異議を唱え垍への太子少傅追贈を実現させたが、妻が垍の従姨であったことから吉甫に讒言され虢州刺史に出された。吉甫の死後、裴度に刑部侍郎・吏部選事に用いられ、元和十年、左常侍致仕、六十一歳で卒し贈工部尚書。古雅な風姿と学問、談笑を好んだが時流への迎合ぶりが批判されたという。
  • 子の寬夫は進士及第、諸府従事から宝暦中に監察御史。祭祀代行の官職の格を上げるべきと上言した。左補闕に転じた際、僧供進の経典を通じて郡牧を得た陳岵の件を論じた発言が敬宗の怒りを買ったが、寬夫が「自分の発言に責任を負う」と潔く認めたことで許された。
  • 寬夫の弟端夫は太常博士として韋綬の諡議で名を挙げた。寬夫の子允章・煥章のうち允章は進士及第、翰林学士承旨・禮部侍郎、咸通九年に知貢挙、鄂州觀察使・檢校工部尚書を経て東都留守。黄巢の洛陽侵攻に抗しきれなかったが害されず、その責で免官され病没した。