厚葬批判と鄭滑節度使での宦官との対立
- 南仲、華州下邽の人。乾元初、制科登第、太子校書から高陵・昭應・萬年三県尉、右拾遺・右補闕。大歴十三年、貞懿皇后獨孤氏の崩御に際し代宗が近城に陵墓を作ろうとした際、南仲は上疏し「長安城は陛下の皇居、その傍に陵墓を築くのは不適切」「葬は本来遠郊に営むもの、近くに置けば衆に溺愛を示すことになり明徳を損なう」「帝王の望春の楼閣近くに陵を築けば天子の心が常に傷み、宴楽の音も陵に聞こえてしまう」「貞懿の号を尊びながら近くに置くのはかえって皇后を辱めることになる」との四点を挙げて諫めた。代宗はこれを嘉納し緋魚袋・五品階を賜り史館に付した。
- 宰相常袞と親しく、袞の左遷に連座して海鹽縣令に出された。浙江東西道観察使韓滉に推官として招かれ殿中侍御史・内供奉・支使、のち左司兵部員外・郎中・御史中丞・給事中・同州刺史・陝虢觀察使を歴任。
- 貞元十五年、李復に代わり鄭滑節度使。監軍薛盈珍が軍政を専断し南仲を讒言、徳宗も疑いを持った。十六年、盈珍が小使程務盈に南仲の陰事を誣告する表を送らせた際、南仲の裨将曹文洽がその内容を知り憤慨、長樂駅で務盈を殺し盈珍の表を厠に沈めて自殺、南仲の潔白を訴える文と自らの犯行を認める書を残した逸話が伝わる。徳宗はこれを聞き驚き、南仲は嫌疑を恐れ入朝を願った。徳宗の「盈珍は軍政を乱していないか」との問いに、南仲は「盈珍が乱していないというなら、私自身が陛下の法を壊しているのです。盈珍のような者がいる限り、羊祜・杜預が蘇っても善政は行えないでしょう」と答え、徳宗は長らく沈黙した。尚書右僕射に任じられ、貞元十九年七月、七十四歳で在職のまま卒し贈太子太保、諡は貞。