許州の危機を凌いだ知将
- 昌裔、太原陽曲の人。若くして蜀に遊学、楊琳の乱では帰順を説得。琳が洺州刺史となった際に従事、琳死後に去った。曲環の濮州回復に従事として辟され、監察御史から檢校兵部尚書・兼中丞・營田副使に累進した。
- 貞元十五年、環の死後、上官涚が節度留後となったが、呉少誠の許州攻撃に涚が城を棄てようとした際、昌裔は「留後は詔を受けた以上死守すべき、五七日堅壁すれば賊勢は衰える」と説得。城壁が壊れても修復できぬ中、戦棚木柵を築かせ壮士千人で敵営を破らせ、城を守り抜いた。反乱を企てた兵馬使安国寧を密かに誅殺した際は、その麾下千余人を饗応で油断させ要所に伏兵を配して縑を持つ者を悉く斬り、一人も逃さなかった。十六年、涚が節度使となり昌裔は陳州刺史。
- 韓全義が溵水で敗れ諸道兵が陳州に逃げ込もうとした際、昌裔は城壁に登り「天子は蔡州討伐を命じたはず、義として入城は許せぬ」と拒否しつつ千騎で全義の陣に単身乗り込み牛酒で労い、全義を驚嘆させた。十八年、陳許行軍司馬、翌年の涚の死後に許州刺史・陳許節度使・檢校右僕射。
- 元和八年五月、許州の大水害で軍府の統治能力が問われ、老病もあって檢校左僕射・兼左龍武統軍として召され、韓臯への交代が促された際、昌裔は風眩を理由に帰邸を願い出て許された。同年卒し贈潞州大都督。