辺境防衛の名将
- 希朝、字は致君、河中虞郷の人。建中年間、邠寧虞候として節度使韓遊瑰に仕え軍政に優れた。徳宗の奉天行幸で戦功を重ね兼中丞・寧州刺史。遊瑰が希朝の名声を恐れ罪を着せようとした際、希朝は鳳翔へ逃れたが徳宗に召され左神策軍に置かれた。遊瑰の死後、邠州諸将は希朝を節度に推したが、希朝は「自分を排斥しようとした後任者となるのは適切でない」と張獻甫に譲り、詔で称賛された。数日後、振武節度使・檢校禮部尚書。
- 振武では党項・室韋が略奪(「刮城門」)を繰り返していたが、希朝は要害に堡柵を築き斥候を厳にして安寧をもたらし、蕃族は畏れて「張光晟がまた名を変えて来た」と語ったという。蛮族の慣習である名馬駱駝の贈答も一切受けなかった。単于城内に樹木を植え柳林を作るなど善政十四年に及んだ。貞元末、しばしば朝覲を願い出て実行した唯一の節帥として徳宗を喜ばせ、檢校右僕射・兼右金吾大將軍。
- 順宗朝、王叔文一党が実権を握った際、老病で御しやすいとみて希朝を左神策・京西諸城鎮行営節度使として奉天に配し、韓泰を副使として実権を奪おうとしたが叔文の失脚で中止された。憲宗即位後、檢校僕射・右金吾から檢校司空・朔方靈鹽節度使。
- 突厥別部の沙陀を甘州から一族約一万人ごと帰順させ、討賊に用いて戦功を挙げ河東節度使に至った。鎮州討伐は功なく、老病で左龍武統軍・太子太保致仕。元和九年卒し贈太子太師。近代の名将として趙充国に比された。ただし張茂昭の王承宗討伐が危機に瀕した際、希朝は戦機を活かさず物議を醸した。